私が4年間にわたり、ライブ活動を行なっていた理由。
それは、様々な生きづらさからくる承認欲求を、どうしようもなく満たしたかったからだ。
いま振り返ってみて、つくづくそう思う。
いじめや虐待によって打ち砕かれ続けてきた、自己肯定感。自尊心(参考記事:https://ameblo.jp/orenochinkasutabero/entry-12350689932.html?frm=theme)。
そして同時に萌芽した、耐えがたい承認欲求。筆舌に尽くし難い欠乏感。
そこから回復するための作業。それが私にとって、表現活動だった。
唄った。話した。詠んだ。あるときは、踊ったりもした。
そして、今年の2月3日。
私は、千葉県・市川市にあるライブハウス「アルマナックハウス」さんでのイベント「ややこしい人の会」に臨んだ。
その終演後、私の胸中を覆い尽くしていたのは、限りない充実感だった。
それも、パフォーマンスの出来とは全く別次元の、ただならぬ充実感。
帰路に着きながら、内なる声に耳を澄ませる。
(おまえはこれまで、自分の承認欲求を満たすために、ステージに立っていただろう?
もうそろそろ、いいんじゃないか?
多くのひとが、おまえの表現を、楽しんでくれる。おまえの存在を、よろこんでくれる。
もうおまえには、余裕がある。誰かに活力を与え得るほどの、限りない余裕が。
かつてあんなに虚ろだった目に、こんなにも光が宿っているじゃないか。
そう、他人へ、ひいては社会へ、いままでおまえが育んできた言葉や想いを、告白してゆくんだよ)
━そして私は、ライブをやめた。
もっとも、自分の何かに見切りをつけたわけじゃない。
分岐点としての、前向きな撤退だ。
もちろん、言葉を紡ぐという行為は、やめないし、やめたくないし、やめられやしない。
私が言葉を拒んでも、言葉がそれを赦さないだろう。
活動の形態と心持ちが変わったに過ぎない。
事実、表現に関する仕事は、ライブとは全く別のステージで展開している。
いま私にとっての表現とは、作品やネタじゃない。
生き様だ。
私の人生そのものが、誰かの生きづらさを和らげてくれたなら、幸甚の極みである。
何か大きなことを成し遂げなくとも、生きているその姿が、何よりも尊い。
あなたも、私も。
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本日も最後までお読み下さいまして、誠にありがとうございました!
・《虐待サバイバー写真展》(https://kojikoji.themedia.jp/posts/4128584)では、被写体として協力させて頂きました。
◆生きづらさフェス『布団の中のアーティスト』(http://blog.livedoor.jp/futon0405/)◆
・開催日 11/4(日)
・会場 茅ケ崎・Login(ログイン)さん
・開場 17時
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皆様のご来場を、心よりお待ちしております!(^^)!