新紙幣 渋沢栄一の話♪ | ハイエースがある生活 ♪

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ご紹介出来ればと思っています。

やっと時代が追いつきましたね。
あれから5年…
年々時の流れが早く感じる
今日この頃です。

ん!
なんの話?
今日は新紙幣発行日です。
昨夜からテレビで色々放送されてましたね。


生涯において500もの企業設立などにかかわり、“日本近代社会の創造者”と言われる渋沢栄一が肖像に選ばれた新一万円札。


新しい五千円札の肖像に選ばれたのは、生涯を通じて、女性の地位向上と女子教育に尽力した教育家、津田梅子。


破傷風を予防・治療する方法を開発した細菌学者で、「近代日本医学の父」と呼ばれている北里柴三郎を肖像に採用した千円札。


「新紙幣の肖像画になった3名の人物を紹介」
前々の職場が熊谷だったので
娘と一緒に「渋沢栄一記念館」「深谷駅」

「赤城乳業 (株) 本社・AKAGI R&D FUTURE LABO」などを巡ってました。


ちなみにみんな大好き
埼玉に工場があって
にて工場見学したらガリガリ君食べ放題です。
激戦で予約が取れないみたいですけど…


ちょっと脱線しちゃいましたが
渋沢栄一ってどんな人?

渋沢は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市の養蚕を営む豪農の家に生まれた。若くして尊皇攘夷運動に加わる。横浜の外国人居留地を襲撃する計画を立てたが、従兄弟の諌止によって未遂に終わった。

 渋沢は京都に逃れ、一橋家の用人の斡旋で一橋家の家臣となる。年貢米や木綿の販路を開拓。藩札の整理など一橋家の財政の改革で実力を発揮。一橋慶喜(よしのぶ)の信用を得て、仕官2年後に同家の財政を担当する御勘定組頭となる。異例の大抜擢であった。

 1866(慶応2)年、一橋慶喜は15代将軍となり、渋沢も幕臣となる。しかし、倒幕運動に参加したことがあったことから、幕臣であることに煩悶。身を退く決意をする。

 またしても人生の転機が訪れる。27歳のとき、パリで開かれる万国博覧会の幕府使節として将軍・慶喜の弟、徳川昭武(あきたけ)に随行するよう命じられた。御勘定を担当する随員だった。

 1867(慶応3)年、横浜を出発した一行は、フランス、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギーなどを巡歴した。フランスへ向かう途中、列強の植民地となったアジア各地を船で巡りながら、スエズ運河の開削工事を見た渋沢は衝撃を受けた。国家の規模をはるかに超えた大事業をどうやってなしとげるのかについて考えた。

 解答は近代ヨーロッパの経済を成り立たせている、あるシステムにあった。それは銀行のシステムだ。銀行が個人から資金を集め、それをまとめて貸し出すことで、新しい会社の事業の資金となる。貸し出し(融資)から得られる利益によって、さらなる大規模事業への出資が可能になり、その利益が人々に還元される。このことをフランスで学んだ渋沢は、この仕組みを「合本主義」と名付けた。

1868(慶応4)年、幕府は瓦解。王政復古の知らせを受けて渋沢は急遽、帰国する。翌69年、まず静岡で金融と商社機能を持つ、「商法会所」という、今でいうところの「会社」を立ち上げた。

 同年、大隈重信大蔵大丞に招かれ、大蔵省に出仕して租税正となる。71年、大隈が参議となり、井上馨が入れ替わって大蔵大丞となる。渋沢は井上とタッグを組み、貨幣・金融・財政制度の改革にあたる。近代貨幣制度の発足にかかわったということだ。

 国立銀行条例の制定、合本企業制度は、いずれも渋沢の発案によるものだ。

1873(明治6)年、予算編成をめぐって大久保利通と対立、渋沢は井上とともに大蔵省を辞し、野に下った。

 官を辞した渋沢の最初の仕事は、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行への関与だった。第一国立銀行は渋沢が退官した73年に、三井組と小野組の共同出資で設立され、渋沢は総監役についた。しかし、三井組・小野組の両組の折り合いが悪く、75年に渋沢が頭取となり、これ以降、同行に君臨。同行は「合本主義」を推進する経済活動の母胎となった。

 渋沢は次々と多くの会社を設立する。抄紙会社(現・王子製紙、日本製紙)、東京株式取引所(現・日本取引所)、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、大阪紡績(現・東洋紡)、東京瓦斯(現・東京ガス)、ジャパン・ブルワリー(現・キリンビール)、有限責任東京ホテル会社(現・帝国ホテル)、札幌麦酒会社(現・サッポロビール)、明治製糖(現・大日本明治製糖)、田園都市(現・東京急行電鉄、東急不動産)など、枚挙にいとまがない。そんな渋沢が唯一、自分の名前を冠したのが澁澤倉庫(現在も澁澤倉庫)。生涯に関係した会社は500社を超えるといわれている。

 同時に東京慈恵会医院・東京慈恵会(現・東京慈恵会医科大学・学校法人慈恵大学)、日本赤十字社などの社会事業、商法講習所(現・一橋大学)や日本女子大学など教育機関の立ち上げにもかかわった。

小さな資本を集めて大資本にする、すなわち合本主義が、渋沢が渡欧中に学んだ最大の知恵であった。合本主義、現在の株式会社を設立するオルガナイザーとして活躍したことが、渋沢の事跡のなかで特筆される。

 渋沢と三菱の創始者、岩崎弥太郎の経営哲学の違いを示す有名なエピソードが残っている。1878(明治11)年8月、隅田川の屋形船での舟遊びした時のことだ。渋沢38歳、岩崎43歳であった。

 岩崎は渋沢に、一緒に手を組まないかと持ちかけた。だが、渋沢が岩崎の経営思想を批判したことから口論となった。

 渋沢は、三菱の社規は「会社ノ体ヲナストイエドモ、ソノ実マッタク一家ノ家業」と鋭く指摘した。岩崎は会社組織のかたちをとりながら、実質的にそれを否定していた。渋沢は合本主義、経済道徳合一主義を唱えていたから、「会社ノ利益ハマッタク社長ノ一身ニ止マルベシ」という岩崎の思想に我慢がならなかったのである。

 岩崎は「一家の事業ではなぜいかん。合本主義とはなんだ。人間をだめにする思想ではないか」と反駁し、会談は物別れで終わった。この後、勃発する2人の“ビジネス戦争”の前哨戦ともいえる出来事だった。

 1931(昭和6)年11月、渋沢は91歳の生涯を閉じた。渋沢は三菱のような巨大財閥をつくることもできたが、合本主義を日本に広めることを使命とし、“渋沢財閥”はつくらなかった。

 その代わりに「日本の資本主義の父」と尊敬され、新1万円札に肖像が描かれることになった。


どうですか?

『渋沢栄一 Wikipedia』

より。


凄い人ですね。


電子マネー化が進んでいますが
近々実物を触れるかな?

二千円札持ってたけど
どこに行っちゃったんだろう…


ーおしまいー