【茶道のお稽古】禅語に学ぶ「ありのまま」の本当の意味

 

先日のお茶のお稽古で、床の間に掛けられていたお軸(掛け軸)の言葉がとても心に残りました。

書かれていたのは、こんな禅語の句です。

 

「水向石辺流出冷 風従花裏過来香」 

 

(水は石辺に向かって流れ出でて冷たく、風は花裏より過ぎ来って香ばし)

 

岩のほとりを流れる水はひんやりと冷たく清らかで、花々の中を吹き抜けてくる風は、その芳しい香りを運んでくる……という情景を詠んだものです。

 

もっと深堀りしたくてGeminiで調べてみました。

 

この言葉は、もともとは中国の北宋時代の文人である蘇洵(そじゅん)が作った対句が始まりとされています。

その後、この表現が禅の精神と深く結びつき、中国の宋時代の禅僧である釈師観(しゃくしかん)が、自身の漢詩(偈頌)の後半部分に取り入れました。禅語としては、この釈師観の詩が出典として扱われることが一般的です。

 

前後の句(全文)について

釈師観が詠んだ『頌古三十三首』という詩のなかで、掛け軸の言葉の「前」には以下の2句が存在します。画像の言葉が詩の結び(後半)となるため、「後」に続く句はありません。

 

【全文と読み下し】

  • 未審魂霊往那方(未だ審らかにせず 魂霊の那方へ往くかを)
  • 無棲泊処露堂堂(棲泊の処無く 露堂堂)
  • 水向石辺流出冷(水は石辺に向かって流れ出でて冷たく)
  • 風従花裏過来香(風は花裏より過ぎ来って香ばし)

【詩全体の意味合い】 

前半の2句は「人の魂は死後どこへ行くのかは分からないが、特定の留まる場所などなくとも、その姿は堂々とありのままに現れている(露堂堂)」という、執着のない悟りの境地を説いています。

そして後半の2句(掛け軸の言葉)で、「水は石にぶつかりながら冷たく流れ、風は花を通り抜けて香りを運ぶ」という、自然がそれぞれの持ち味を活かしたまま調和している情景を描写し、真理の美しさを表して締めくくられています。

元々は宴席での詩作から生まれたとされる美しい表現が、やがて禅の深い境地を表す言葉として発展し、今もこうしてお茶室に掛けられているという、非常に歴史と奥行きのある言葉です。

 

水は冷たく、花は香る。

 

それぞれの「本来の持ち味」や「ありのままの姿」が、飾ることなく自然に調和している美しさを表しているそうです。

このお話を聞いて、私はふとこんな疑問を抱きました。 「『ありのまま』って、実はすごく難しいことなのではないか?」と。いや、そもそも「ありのまま」って何?

「ありのままに生きる」というと、つい「他人の評価や目を気にしないで、自分の好きなように行動すること」なのかな?と考えてしまいがちですよね。

 

そこで気になって、「ありのまま」についてGeminiで調べてみました。

 

すると、面白い答えが返ってきました。

禅の世界でいう「ありのまま」とは、強引に他人の目を排除して自分勝手にするという意味ではなく、「よく見せよう」「こうあるべき」という余計な計算や見栄を手放した状態を指すのだそうです。

 

水や風も、「冷たくしてやろう」と計算しているわけではなく、ただ持って生まれた性質のままにそこにあり、結果として周囲と美しく調和しています。

これを自分自身のお茶のお点前に置き換えてみると…… 最初は「間違えないように」「綺麗に見せよう」と頭で考えてしまいますが、日々のお稽古を重ねていくうちに、ある時ふとその意識が消えることがあります。

お湯の温度や茶筅の感触にただ真っ直ぐに向き合い、自然と手が動く瞬間。 でも、よく考えてみると、この「無心」の境地にたどり着くには、地道な日々の練習や反復が欠かせないのですよね。

最初から努力なしに「ありのまま」でいられるわけではなく、基本の動きが身体に染み込むまで繰り返すからこそ、やがて頭の中の雑念が消え、本当の「自然体」が現れる。

「今、ここにある自分」だけを感じる心地よい瞬間も、日々の積み重ねがあるからこそたどり着ける感覚なのかもしれません。

「ありのまま」への道のりはまだまだ奥が深いですが、お茶室という非日常の空間とAIからの客観的なヒントのおかげで、また一つ大切なことに気づかせてもらえた良い一日でした。

 

葉が生い茂る緑の植物

 

最近ハマっているおウチ抹茶です。

 

これは抹茶の渋みだけでなく、ほのかな甘さも感じられるお抹茶です。

美味しいです!

 

雲門の昔 抹茶 20g

 

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