一休和尚の「曲がった松」と、真っすぐに見るということ

 

先日のお茶のお稽古は「平花月」と「濃茶付貴人清次花月」でした。 静かな茶室での時間のなかで、先生から禅にまつわる興味深いお話を伺いました。 一休和尚が残したとされる、「曲がった松」のエピソードです。

新緑のモミジの葉
 

ある日、一休和尚は道端にある見事に曲がりくねった松の木の前に、一つの立て札を立てました。 そこには「この松を、真っすぐに見ることができた者には大金を与える」と書かれていました。

村の人々はこぞって賞金を狙い、首を傾けたり、木に登ったり、あるいは逆立ちをしたりと、なんとかして松を「真っすぐ」見ようと四苦八苦したそうです。しかし、どう見ても松は曲がったままです。

そこへ通りかかったのが、一休和尚の親友であった蓮如上人でした。 蓮如上人は曲がりくねった松を眺め、ただ一言、こう言いました。

「なんとまあ、見事に曲がった松であることか」

そして、「曲がった松を『曲がっている』とそのまま見るのが、真っすぐな見方である。曲がった松を無理に真っすぐ見ようとする心こそが、曲がっているのだ」と続けました。 これを聞いた一休和尚は、「お見事」と大変喜んだといいます。

私たちは普段、無意識のうちに「自分の都合」や「こうあるべき」という色眼鏡を通して物事を見てしまいがちです。 自分の思い通りにならないことに腹を立てたり、無理に歪めて解釈しようとしたりして、勝手に苦しんでしまうことがあります。

禅の世界にあるように、曲がっているものは「曲がっている」、悲しい時は「悲しい」と、ありのままの事実をただ静かに受け止めること。 それこそが「真っすぐに見る」ということであり、心の力みを抜くためのヒントなのだと、先生のお話から学びました。

ちなみにこの逸話には、続きがあります。 見事に正解した蓮如上人が賞金を求めると、一休和尚は「立て札の裏を見てみろ」と返しました。 そこには小さく「ただし、蓮如は除く」と書かれていたそうです。

お互いの力量を知り尽くした者同士だからこその、遊び心のあるやり取りですね。

先生からこのお話を伺った後、平花月と濃茶付貴人清次花月のお稽古に入りました。「ありのままを真っすぐに見る」という教えは、茶室での所作や心の持ちようにも、そのまま通じているように感じました。

お茶のお稽古を通し、少しだけ視野が広がったような一日でした。

 

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