いつもと同じであって、以下に書くことは全くの素人考えであり、いかなる専門的知見の裏づけをも伴っていない。読者におかれては(読者なんているかどうかなどということは、もちろん知らない)、書かれている内容が妥当か否かを自らでご判断いただきたい。という、いつものNota beneないしCaveatをまず記しておく。

 ところで、である。新型コロナウイルス感染症が流行してはやウンか月(この「ウン」のところにどういう数字を入れるべきかはなかなか厄介な話であり、というのも、何を以て感染拡大の端緒と成すかの判断は容易でないからである・・・そういう面倒くさいことは少しも本質的な話でないので、ここではこれで済ますことにする)、5月下旬のここへ来て、善悪は別にして日本では全国的に外出抑制の緩和という流れになってきた。現時点でなお緊急事態宣言の適用が続いている首都圏及び北海道についても、ほぼ間違いなく、5月末までには解除という事態になり、外出抑制が緩和されることになるのだろう。

 それが本当に妥当かどうかは蓋を開けてみなければわからず、そして実際には、何となく緩和ムードに世間が浸っている中で、そのうちに、そこここで小さな集団感染が発生するのではないかと予想される。現在の日本における言わば「検査密度」(日本ではもちろん、この密度が極めて低いのである)からすれば、たぶんこれはほとんど不可避である。

 そして小さな集団感染が発生した場合に何をすべきかについては、今や共通認識はできつつあると言ってよいのではないか。すなわち、感染者及びその感染者にいわゆる濃厚接触をした可能性の高い人々を短期間で集中的に検査して(このためには圧倒的物量の検査能力を予め用意しておくことが必須である)感染区域を特定し、そして感染者を(発症者も無症状者も)しかるべく入院させまたは隔離して(このためには充分な規模の入院病棟及び/または隔離施設の予めの用意が不可欠である)、感染拡大を速やかに遮断すること、これが必要だと思われる。このようにして感染拡大を防げなければ、再び外出抑制が必要となる恐れがあり、そうなった場合の経済的な打撃、及び人々への精神的な打撃、は深刻なものとなるだろう。このような打撃を極力回避して社会経済生活の継続を維持することが、今後当面の中央政府及び各地方自治体の行政目標となるのでなければならないと思われる(そしてその際に参考となるのは、例えば台湾やニュージーランドであり、また、(初動対応の遅れなどから死者数こそ多くなってしまったが、とはいえやはり)スウェーデンだろう)。ここまでの点については、たぶん大方の考えに違いはないだろうと想像される。

 ところで、標題で「展望する」と言った以上、本論考が問題にしたいのは無論その先の話である。つまり、中長期的に我々は世界がどうなると予想し、またその予想のもと行動することになるか(行動するべきか、とまで言わないとしても)、これが論点である。

 感染症流行からウンか月を経て、既に色々な徴候は見え始めている。例えば、テレワークが既に大幅に進展しており、そしてこれは、少なくとも部分的には不可逆な趨勢となりつつある(つまり、外出抑制が緩和されても、テレワークから通勤というふうには、少なくとも部分的には逆戻りしない)ように思われる。大学の授業などについても、実験など物理的集合が不可欠な形態の授業を除けば、かなりの部分がオンライン授業に適合的であるように見受けられる(但し、これまでのところでは、教員が負っている負担の増加は相当なものであるようだが)。

 業種によっては、緊急事態宣言が解除となっても苦難の道を歩むほかない業種もあるようである。例えばライブハウスなどは三密との強烈な烙印を押されてしまって、今や業種全体が立ち行かないのではないかとの懸念も禁じえない。ライブ自体は代わりに野外での実施なども不可能でないだろうと思われるが、言うまでもなく、(上演に伴う雰囲気等々を考え合わせれば)それがライブハウスでの上演を完全に肩がわりできるわけでは決してない。演劇も、特に小劇場などは果たして今後成り立つのかどうか(私自身は観劇はしないので、これ以上想像を逞しくすることは控えるが)。これに対して、映画関係で言えばミニシアターは、換気を良くして、かつ入場者制限を行なえば、まだしも成り立ちうるのではないか。但し、入場者制限を行なうこと自体は経営に対する大打撃であるに相違なく、その意味ではこれまた苦難の道には違いあるまい。

 観光業も、緊急事態宣言が解除となり外出抑制が緩和されても、人の出足が容易に戻るはずはない以上、苦難の道を歩まざるをえないだろう。これへの対策としては、例えば小中学校の修学旅行を、遠距離の観光地でなく近場でやってもらうように働きかける、といった手があるのではないかと思われるが(その場合無論、近場で意味のある「修学」旅行とするためには、何らかの企画が必要となろう)、果たしてこの程度で苦境の打開につながるかどうかは、素人の筆者には想像がつきかねる。また、従来以上に「滞在+体験」(したがって、単なる1、2泊でなく、数日は宿泊してもらう)といった形の旅行、例えば田舎ぐらし+農業体験、といったことを観光業側がもっと提案する必要があるように思われる。そして可能なら、将来的には、逆出稼ぎ(つまり、農繁期における、都会から田舎への一時的人口移動)のようなことが一大ムーブメントとなるところまで持っていければ良いかもしれない。もちろんこれは全く妄想の世界の話である。さらに、妄想ついでに素人の暴言を記すと、特に地方においては観光業は、観光業単体での経営とするのでなく、何か別の産業(例えばそれこそ農業)を営みながらの副業的な仕方で営むことができないものかと思う。こういうことを書くと、プロの観光業者からは実態を知らない人間の暴言と批判されるだろうが(もとより妄言は承知の上である)、今後、人々の移動がコロナ以前と同様には行かなくなるであろうことが必至だとすれば、観光業がそれ自体では成り立ちがたくなることもまた、必至であるように筆者には思われる。

 移動に関する人々の意識が変化することに伴って、旅客運送業や旅行代理業も今後苦境が長続きする業種の1つだろうと思われる。特に海外旅行は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行が一段落するまでは、極めてやりにくくなるだろう。但し、人々の海外への移動が減ること自体は、或る意味で歓迎するべきことだと筆者自身は考えている。というのは、誤解を恐れずに言えば、人々の海外への移動が減ることによって、移民が少なくなるだろうからである。こういう言い方をすると人種差別的との批判を招きやすいということは重々承知しているが、極めて率直に言えば(この点はたぶん、それ自体を論題として一稿をものすべきかもしれない)、一般的に言って民度が高いとは到底みなせない今の世界においては、移民は決して望ましくないと筆者自身は考えている。なぜなら、移民は本人にとっては故郷喪失を意味し、そしてその移民が行った先では、文化摩擦が招来される可能性が高いからである。移民として認められるのは、知的水準が相当に高く、「郷に入っては郷に従え」が(文化摩擦を生じさせないほどに充分に)実行可能である、そういう人々に基本的に限られるべきだと筆者は思っている(以前に数年間ヨーロッパに住み、自分なりにヨーロッパの状況を現地で見た上でこういう考えを持つに至っている、ということを付言しておく)。移民に関する如上の立言は種々批判を招くだろうが、これについては、他日の詳論を期することとしたい。

 旅客運送業や旅行代理業の苦境に関する話が途中になってしまったが、今後基本的に海外旅行は相当程度、高嶺の花たらざるをえないだろうし、そのほうが良いのではないかと筆者自身は考える(つまり、高額の運賃を設定することによって採算が取れるようにすることを、例えば航空会社は目指すべきである)。これに対して国内旅行に関しては、一国内部であれば、移動に伴うリスクを統一的な仕方で管理することは必ずしも不可能でないので、そのようなリスク管理体制を(例えば空港で、また航空各社で)予め敷いた上で、外出抑制の緩和に伴ってかなりの程度、従来のあり方に近づけることは可能ではないかと思われる(但し、移動に関する人々の意識の変容については、どうしようもない現実として受け入れるほかあるまい)。旅行代理業に関しては、海外旅行の企画は今後しばらくは非常に難しいのではあるまいか(不可能とまで言わないとしても)。国内旅行、しかも意識変容に対応した新しい国内旅行のあり方の提案を目指すほかに、当面の活路はないように思われる。

 旅客運送業のうち鉄道はどうなるか。乗り鉄の1人として言えば、外出抑制が緩和されれば今すぐにでもローカル線を乗りまくりたいところだが、そういう個人的趣味の話を措くとすると、鉄道業にとっての主要な問題は、大きな収入源であるだろう通勤列車(特にラッシュ時の通勤列車)が今後どうなるか、である。というのも、改めて言うまでもなく、テレワークが普及すればそれは直ちに通勤客の減少を帰結するからである。そして、上述のようにテレワークのさらなる普及が必至だとすると、それに伴う鉄道業の減収は構造的な減収となろう。首都圏について言えば、ホームドアの設置(こういうものへの出費・投資は、経営的に余力があって初めて可能だったろう)が順調に進んでいたところなどから見て、鉄道業は近年経営的に順調に推移してきていたと想像されるが、このような構造的減収要因が今後どの程度の打撃をもたらすか。その如何では、地方の鉄道(業)についてのみ従来見られた存続問題が、今後は大都市圏或いは大都市圏に近い地域の鉄道業においても発生するかもしれない。

 などと知ったかぶりで色々な業種の今後に関する妄想を記したが、本当は、記すべき妄想(しかも、もっと重大な妄想)はほかにある。そのあたりのことは、稿を改めて書くことにしたい。