最近の私はどんどん手を貸すようになっています。
例えば、自転車ドミノを起こした人へ。
あれ、まず自分の自転車を一度止めて、
倒した自転車のところへ移動して、ひとつづつ立て直していくでしょ。
自分の自転車をとめておられる間に
手が空いていた私は、さっと倒れた自転車を立てる。
さっと。
以前存在した
「本人のためにならないんじゃないか」
「偽善なんじゃないか」
「私、急いでるし」
「お節介か」
なんていろんな声はもう聞えません。
あ、これだれかが言っているんじゃなく、
自分が行動しない言い訳として脳内を駆け巡る「言い訳」さんの声なんだけれど。
偽善でもなんでも、やっちまえばいいのです。
本人のためになるかどうかおいておいて、やっちまえばいいのです。
産後、この意識がすごく進みましたが、ここ最近はかなり加速しています。
善の行動をしない人は、「言い訳」さんを発動させて、行動しない理由をあげて、行動しません。
が、本当は、純粋な思いは「行動したい」のだと思います。
これが本音。
ホントは、愛をふりまきたい。輪を分かち合いたい。手助けしたい。
でも、愛を表現するのに恐れがあるから、いろんな言い訳をして、恐れにふれないようにしているだけなのかと。
めんどくさいから、ほんとはしたくないから、「言い訳」を発動させると思われていますが、誰に言い訳しているのって、自分でしょ。
行動しない言い訳を自分にするのは、ほんとはしたい自分がいるから。
でも怖いから。
目立つことが。
つながることが。
失うことが。
ジャッジされることが。
依存されることが。
どんな行動をとってもいい。
その後、違う行動をとってもいい。
行動が一貫しなくていい。
人なんて毎瞬、毎瞬変わっているのだから。
キャラを一つに絞らないでいい。
キャラを演じなくていい。
手助けしたあと、意地悪な気持ちになってもいい。
手を差し伸べた後、自分のペースで、自分を守っていい。
ずっとやり続けなきゃいけないなんて、きつい。
いろんな自分になっていいのです。
一つのキャラが確立され、そんな自分でいることが「自分らしくある」ことではありません。
いろんな矛盾した感情を持つ私がいて、それが、ふんわりと不思議なバランスで統合している私がいる。
芸能人はキャラを確立しないと、人に認識されないし、ということは人気がでないからキャラを作り上げていきます。
でもあっという間に廃りが訪れ、キャラ変更に苦労して、新しいキャラを確立できなければ、見向きされなくなり、消えていきます。
それはね、芸能人だから。
偶像の世界だからです。
そんな芸能人の方々も、プライベートの世界では、キャラから離れた自分に戻ることで、バランスを保っているのだと思います。
一つのキャラにしばられるのは、とても分かりやすいけれど、無理があります。
それこそ、不可能なことなのです。
矛盾しているキャラが存在しているからこそ、ナチュラルなのです。
どんな自分も自分。
それは毎度毎度同じようで、違う顔。
そんな矛盾した自分が絶妙なバランスでいてるとき、芯がすっと一本通って、人の目が気にならなくなるのです。
役にたつ 自分 とか
価値のある 自分とか
そんなところを目的にするのではなく、
ただ、純粋に手助けをする。
ただ、純粋に手を貸す。
ただ、純粋に、したいと思ったことをする。
それを目指すのです。
心理カウンセラー 利佳