私は沖縄生まれ
沖縄育ち。
私にとっての
終戦記念日は、
6月23日(沖縄慰霊の日)で、
8月15日といわれても、
あまりピンとこない。
でも反戦平和を考えるに
日付などは関係ないよね。
ちょっとここ最近は、
私にとって、
終戦記念日週間だった。
ベットに横たわっていて
こんなことを思い出していた。
新年やお盆の親せきまわりの際に
よくお話を聞かせてくれる、
おばばがいた。
おばあちゃんのお姉さん。
高校生のころかな。
彼女が
言っていたことがとっても
印象に残っている。
「戦争が終わった時、
こう思ったのよね。
生き残ってしまった
って。」
一瞬意味が分からなかった。
「生きててよかった」
じゃないの?
違う。
「なんで自分だけ生き残ってしまったんだろうという罪悪感」
「身近な人たちが大勢亡くなりすぎて、私だけ残るの?という絶望感」
ということだった。
「生きてて良かった」でも
そうとう悲惨だったんだな。
って想像するのに、
それを超えて、
「生き残ってしまった」
って。。。
戦争のお話をおばばから聞いたのは、
この一回だけだった。
私のおばあちゃんからも
戦争のお話を聞いたことがある。
でもそれも一回だけだった。
一回聞いたら、
これ以上聞こうという気になれない。
これ以上話させる気になれない
話を聞いた。
私は、
その時、事実をきいた。
当事者からの事実を聞いた。
民間人の苦悩も。
軍人の苦悩も。
集団自決のことも。
軍による住民殺害のことも。
戦争は映画で描かれているようなあんなもんじゃない。
スプラッターでも足りない。
人をこんなにも狂わせてしまう「戦争」というものは、
絶対に、起こってはいけないんだ。
と心の底から思った。
そして、
その数年後
私が大学生になったころ、
そんなことはなかった。
集団自決は軍が指揮したことではなかった。
だから、
そのことは歴史教科書から消す。
ということが起こった。
なんで
そんなことが起こるのか。
それは、
「事実」を見ていないから。
「事実」に触れられないから。
メディアを通してからしか
情報が流れないから。
そして、
私たちはそれをあたかも「事実」のように
思っているから。
メディアを通した時点で、
もう「事実」ではないんだよ。
「意見」なんだよ。
こういう風に見せたい。
こういう風には見せたくない。
という「意見」によって
「事実」が変わるならば、
それはもうすでに
「事実」ではないと思う。
だから
私がこうやって書いていることも
もう私を通している時点で
「意見」なんだよね。
だって、私は戦争体験者じゃないもん。
でも、少なくとも、
本物に触れないで、
事実に触れないで、
誰かが言っていたことや
もっともらしいことを
根拠に
歴史教科書から
「集団自決」についての
項目を消そうとする人たちよりは、
「事実」に近いと思う。
事実を知ることで、戦争の悲惨さを私は知った。
だから、
戦争は絶対だめ!って言う。
これが、
本やテレビからの情報だけだったら、
どうだっただろう。
「戦争はいけないなぁ」ぐらだったかな。
それとも
「やっぱり戦争はしかたない時もある」
って思ったかなぁ。
今となっては分からないけれど。
人は、「陰」を知って
初めて「光」のありがたさを感じると思う。
「戦争」という「陰」は、体験してからでは、
おそすぎる。
あまりにも。
ならせめて
ちゃんと「陰」を見つめる。
つまり、「事実」と会う。
そして、
その「陰」をしっかりと腹にすえるぐらいの強さを
もっていくことが、
本当の意味で、戦争を防ぐ意思になると思う。
一日一回ぽちっとしていただけますか?
ありがとぅぅぅ これだからまたまたがんばれます^-^