昨夜は友達と長電話していて、電話を切ったのが深夜の1時すぎ。それからお風呂に入って寝ました。たまたま今日は一日休みにしてあってよかった。
このタイトルを見たとき、二人の恩師が思い浮かびました。今日は一人目の先生のことを書きたいと思います。一人目の先生は「学校」ではなく「塾」の先生です。
きっかけ:
その方は私の親世代の方で、実家の近所に住まわれて両親とも仲が良かった女性でした。私が中学生の頃に塾を開かれることになりました。ご近所ということで何の抵抗もなく、近くに住む同級生たちと生徒一期生になりました。それまで近所の「おばちゃん~」だった人をその日から「先生」と呼ばなくてはいけなくなり、最初こそ違和感がありましたが。
居場所:
先生のご自宅の敷地にある小さいプレハブ部屋を利用し、生徒数名、寺子屋みたいな感じで塾がスタートしました。先生は何を聞いてもすぐに答えてくれる才女でした。でも生徒の身になっていろいろ考えてくれる方でもあり、いま思えば思春期の子供たちに居場所を提供してくれていた・・というほうが私にとっては思い出深いです。塾の授業は基本的に週2日のはずでしたが実際は「いつ来ても、何時間いてもいいよ」みたいなところだったのです。勉強したくない人はしなくても良い、いるだけでも良い不思議な塾でした。私はとても厳しかった両親から少しでも離れていたくて、夜になるとこの塾に行って同年代の子たちとただただ、うだうだと過ごしていました。親には「勉強しにいく」という名目がたつし、実際はそこで親の監視から「逃げることができた」のでした。
塾に迷い込んできた猫をみんなで飼って世話していたことがありました。猫に子供が生まれたときは大人のつてをたどってみんなで里親探しをしました。捨て犬を拾ってきた子がいて、その犬も塾(先生の自宅)で飼うことになりました。誰といわず動物好きの子たちが自発的に犬や猫の世話をするようになりました。今のような熾烈な偏差値至上主義な空気は私の住んでいた田舎では希薄で、のんびりとした時代だったこともあるけれど、私にとってあの塾は勉強した記憶はあまりなく、思い出すのは動物の世話や友達とのおしゃべりばかりです。
実際のところ、その先生は教え方がとても上手で真面目に勉強している子たちは急カーブを描くように成績が上がっていっていました。その噂が噂を呼んでどんどん生徒が増えていきました。「あの塾に通えば必ず進学校に入れる」という神話めいた噂まで父兄の間で広がり、県外からも生徒が来るようになりました。
その頃の私は既に大学生でしたが、先生から頼まれて大学の休暇中はその塾で講師のアルバイトをするようになりました。生徒が教室に入りきらないくらいに増えたので、教室も建て替えられました。その頃にはさすがに昔のようなサークル的な場ではなくなりましたが、まだあの「心の逃げ場」的な雰囲気はずっと残っていました。自発的に動物の世話をしにきてくれる生徒がいて猫や犬たちが敷地内で元気にしていました。
月謝袋:
ある時、当時の生徒の一人のお父さんが会社でリストラに遭われました。月謝を払えないので塾をやめたいとお母さんが申し出てこられたことがありました。その時の先生の決断はいまでも覚えています。生徒のお母さんに「これからは空の月謝袋を持ってきてください」伝えておられました。当時は授業料を月謝袋に入れて持ってきて担当の講師に渡すようになっていました。私が受け持っていたクラスにいた子だったので「月謝袋にお金は入っていないけど、そのまま受け取ってね」と先生から言われました。その子は高校入試が終わるまでその塾に通いました。他にも数名、家庭の事情で月謝が払えない子供たちがいましたが、先生は同じような段取りをされていました。月謝を払えないお宅がある一方で、親御さんが建設会社の社長さんで建て替えても生徒が入りきらない塾のために、、とプレハブの建物を無償で設置していただいたこともありました(補習用の教室になりました)。いま思うと人の善意が自然に循環していたような環境でした。
その後:
若かった頃の私は何かあると実の母親よりもその先生に第一に報告し、相談し、助言してもらっていました。なんでこんな田舎にこんな賢い人がいるのだろうと当時の自分も思っていました。当時のあの年代の女性としても考え方が進んでいて、器の大きい先生でした。息子さんが二人おられ、二人とも医者になりましたが、彼らが独り立ちした頃に先生は病気で亡くなられました。亡くなられて20年以上が過ぎました。いまでもご自宅の前を通るたびにいつも思い出します。もし存命されていたら話したいこと、相談したいことが今こそたくさんあるのに、と。私にとっては勉強以外の大事なことをたくさん教えていただいた大切な恩師です。