今年は終戦から80年。毎年8月になると戦争関連のドラマやドキュメンタリーなどの番組が増えますが、年々、悲惨な現実を直視するのがつらくなってきました。
実家のご近所のおじいさん、祖母より7~8歳下だったと思いますが、早くに奥様を亡くされていました。祖父が亡くなってから同じく一人になった祖母のところによくお喋りしにきてみえました。その祖母も16年前に亡くなりました。お通夜に来てくれたそのおじいさんと話したことを書こうと思います。
太平洋戦争末期、そのおじいさんは17歳で招集されてフィリピンに送られたそうです。所属していたのは2千人規模の連隊で現地のジャングルに行かされました。その頃の日本軍ってもう勝ち目が殆どないような感じでした。敵に包囲されて戦力も弱まるばかり。連隊内で「こうなったら皆で突撃して死のう」ということになったそうです。その頃、おじいさんはマラリアに罹患してしまった。高熱が出てとても動ける状態ではなくなったため、彼は上官の判断で戦力から外されたそうです。でもその時の彼は外されたことに失望と怒りしかなく、高熱の身で上官のところに行き、「自分も皆と戦いたい。一緒に連れていってほしい」と何度も直訴したそうです。しかし、「病人は連れていけない、お前は外す」と聞き入れてもらえなかったそうです。おじいさんはそれが悔しくて悔しくて、あの時は上官を恨むしかなかった、と。その連隊の最期は悲惨なものだったそうです。当初2千人いた人たちは全滅。結局、生き残ったのは九州出身の連隊長さんと自分を含め数名だけだった、と。
私は思わず「マラリアのおかげで死ななくて済んだのだから、それでよかったじゃないですか」と言ってしまったのですが、おじいさんは無言でした。私はその戦場の空気感を想像しようとしましたが、想像しきれませんでした。1%以下の確率で生存して帰還できたのに。戦場の空気ってそんなに人間の感覚を変えてしまうのだろうか、、戦場の価値観の異質さを思いました。
話しながらも時々黙り込むことがあったおじいさん。いま思うと言葉にすることさえできない現実を思い出されていたのかもしれません。そのおじいさんは私の実家のご近所さんでした。お子さんやお孫さんたちと大きな家に住まわれて、悠々自適に暮らしておられました。こんな平和な時代はありがたいのう、、ってあの時も仰ってた。
通夜の場で私があの時思ったのは、ジャングルで戦死された残りの2千人の兵隊さんたちのこと。既にお子さんがいる人もいたかもしれないけれど、戦争末期はあのおじいさんみたいに若い年齢で招集されていた人も多かった。もし、その人たちが長命していたら、数年後には結婚して子供ができて、今頃は孫がいてという人生だったかもしれない。生まれてくるはずだった数多くの子孫の可能性はその時、ジャングルで断たれてしまった。その事実、「失われた未来」の影の暗さ、重さがなんともいえないものでした。
2年前に伯母の葬儀で久しぶりに親戚が集まった時、そのおじいさんも数年前にお亡くなりになったと聞きました。戦争を知る人が年々少なくなってきたことで、やはり戦争の実感自体も薄くなってきているのではないかと感じます。8月は平和について改めて考える時期でもありますね。
写真は東京・靖国神社。訪れたのはもう10年近く前です。