連休中の読書。和食は「WASHOKU」として2013年、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。その立役者であったのが京都の料亭菊乃井の三代目ご主人である著者。和食を世界に知らしめた村田氏の料理哲学が詰まった一冊でした。

 

自分自身も、以前はいろんなところに外食に出かけていました。一度だけですが菊乃井さんの本店にも食事に行きました。世間で評価の高いお店で食事をしても一週間くらいすると記憶から薄れていくことが多いのに、菊乃井さんだけは一週間どころか一か月、いや一年経っても、ずっと余韻みたいなのが心に残っていて、ああ、よかったなあ・・って温かい記憶が甦ってくるのです。水を打った玄関での出迎えから始まり、館内の調度や食器、雰囲気、そして自分たちがとっても大事にされていると思わせてくれる料亭の方々の対応。料理だけでなく、そういうのがすべて相まっていまでも忘れがたい思い出になっています。

 

なので、著作の中でここの部分を読んだとき、「私の印象そのまま、その通り!」って思いました。

 

~私は「京料理」が「登録無形文化財」になる時に、こういうことを言いました。

「料理三割、サービス三割、あとの四割は空気」

空気は雰囲気といってもいいかもしれません。料亭なら料亭の建物、部屋、庭、置物、絵画、書、そして人物まで含めた「雰囲気(空気)」。つまりこの雰囲気とサービス、もてなしで七十点は取れる。~

 

記憶に残っているのは何を食べたかではなくて、どんな場所で過ごしたかという全体像なのかもしれません。そして料理自体も著者のいう「残心のある料理」であったからなのか。

 

興味深かったことは「おいしい」という人間の味覚は五感の中で一番鈍感なものというところです。もちろん体に毒なもの、腐ったものがわからない鈍感さではだめだけれど味覚の鋭敏すぎる人は、敏感すぎて食べられるものがなくて早死にしてしまうと。少々腐りかけの肉でも火を通したら食べられる、みんなで楽しく食べれば結構いける、という感じで生き残ってきたのが今の人間ではないかというのです。「おいしい」を作るのは味覚だけではなく、それを囲む調理、雰囲気、サービスといった要素なのですね。そういえばひとりで食べるより気の置けない人たちと楽しく会話しながら食べたり、自然の中で食べた記憶は「とても美味しかった」と記憶されてます。食べ物そのものより、それ以外の要素が「美味しい」を作っていた。自分自身の経験からも納得できるお話でした。

 

著者の京都の料亭のぼんとしての生まれ育ち、小さい頃からの食生活、若い頃のヨーロッパや名古屋での料理人修行、、どれも興味深かったです。ここ数年で和食の「うまみ」の味覚が海外でも知られるようになりましたが、その裏ではこうした方々の想い、働きがあったからこそなのですね。読んでよかった一冊でした。