次は龍野城のことを書くつもりでしたが途中に三木露風の生家に寄ったのでまずそのことを。童謡「赤とんぼ」を作詞した人です。
龍野城の埋門の坂に差し掛かるところにあります。明治期に建てられ、その後建て直しされているそうですがなるべく当時の原型をとどめた造りになっているとのこと。見学無料です。
本竜野駅の構内で「赤とんぼ」のメロディーが流れていました。久しぶりに耳にするこのメロディーには懐かしさと、感傷的な響きが。心に染み入ってくるようでした。この日、ここを訪れて露風の生い立ちを知って、「赤とんぼ」の歌に込められた露風の想いを初めて知りました。
生家のあった場所は幕藩時代は政治の中枢の場所でした。お城近くに住居があったということは普通に考えると彼はいいところのお坊ちゃん育ちだったかと想像しますが・・。実際父親は銀行勤め、祖父は藩の寺社奉行、初代九十四銀行頭取であったそうです。しかし、露風が6歳の時に両親が離婚。母が家を出ていったため、露風は祖父に引き取られて別の家で暮らしました。そのためこの家は露風が幼い頃にだけ過ごし、母との思いでが唯一残る家だったということになります。
自宅に帰ってからネットで調べてみて更にわかったこととあわせ、「赤とんぼ」の童謡ににまつわるエピソードをメモしておきます。
歌詞については三木露風が自身の幼児体験を思い浮かべながら作ったものでした。
幼かった頃、彼の世話をしてくれていた姐やの背に負われて見ていた赤とんぼ。
姐やは母のいない彼にとっては一番身近な女性だったのでしょう。
その姐やは15歳でお嫁にいってしまい、お里の便りもたえはてた。その後はどうしているかわからない。
6歳の子供だった露風の前から母が去り、そのあと世話をしてくれた姐やもいくなった。心細さ、寂しさだけが募る。幼い少年の胸の内を思うととても切ない気持ちになります。
露風のお母さんはどんな人だったのでしょう。気になったので調べてみました。離縁されて子をおいて出ていった・・まで調べたときは彼女は弱くて、耐えて忍ぶ・・みたいな女性かと思ったら全然違いました。
女性の地位がまだまだ低かったこの時代にあって、離婚後は東京帝国大学病院の看護師になり、それだけに留まらず、女性解放運動に身を挺し、廃娼運動や足尾鉱毒事件の救済運動にも取り組んでいた、すっごいパワフルなキャリアウーマンだったようです。
露風は長じてから母を追って母のいる北海道へわたり、そこの修道院で働いていた時に「赤とんぼ」の作詞をしたそうです。力強く人生を生きる母と対照的な繊細な心をもった息子。彼は母をどうみていたのでしょう。そんなところも気になりました。後年、露風自身も女性の地位を高めよ、ということを言ってて、これはやはり母の影響を受けたものなのだと納得しました。