天正10年6月2日。本能寺の変が起こった日です。旧暦の日付なので現代なら6月21日頃です。織田家の菩提寺が上京区にあり、そこで執り行われる法要に参加してきました。一般でも参加できることを知り、初めて訪れたのは2019年。今回は5年ぶり2度目です。とても有名な本能寺とは異なり、こじんまりとしていて、信長公を身近に感じられるように思いました。
 

本堂では最初に45分ほどかけて講話を聴きました。阿弥陀寺の初代住職は織田家の身内同然に育ったという清玉上人。襲撃の夜、この方が本能寺の僧侶のふりをして本能寺内にしのびこみ、信長の首を隠して阿弥陀寺までもってきてのちに胴体とつなげてここに埋葬したそうです。歴史小説を読むと光秀は信長の遺体が見つからないことにやきもきしていた・・といわれていますが、実際は清玉上人が光秀と会って信長が亡くなったことをちゃんと伝えていたのだそう。また、直後に信長の跡目を狙う秀吉が阿弥陀寺で信長の葬儀を執り行いたいといってきたそうですが、清玉上人はそれを断りました。信長公とは兄弟のように育ってきた上人は信長の葬式を政治利用しようとした秀吉の魂胆を見抜いていたのでしょう。秀吉はその後、大徳寺で大々的な法要を行いますが、そのときはお棺に大きな木造をいれて信長公の遺体としました。秀吉が天下を取ったのち、阿弥陀寺は秀吉によって随分冷遇され、往時の6分の1の規模にまで縮小を余儀なくされたそうです。困窮を極めた阿弥陀寺を救ってくれたのが当時の天皇だったそうです。有力な公家などを檀家につけてくれたことで阿弥陀寺は生き延びることができたと。そんなくだりを聴いて生前の信長は天皇側とも良い関係を築いていたということを知りました。

 

講話が終了してからは普段非公開となっている明智光秀や織田信長直筆の書状、本能寺襲撃の夜に信長本人が手にしていた槍の矛先などを拝見しました。信長が弓を射る時に使っていた皮の白手袋もありました。あの時代に本革の白手袋。新しいものが好きだった信長公、その姿も粋だったのでしょうねニコニコ。信長、信忠の木像も公開されています。晩年の信長の表情はより先鋭化しているというか、とても厳しくて神経質そうな印象を受けます。その木像の前で焼香させてもらいました。今年で443回忌。数百年を超えての歴史上人物との対峙、なんだか不思議な感覚でした。

 

 

本堂を出てからは境内にあるお墓にお参りしてきました。

 

 

 

織田信長のお墓はたくさんありますが、本人が本当に埋葬されているのがここなのかもしれません。森蘭丸のお墓もすぐ横にあります。

 

 

今回聴いた講話の中で、本能寺襲撃やお寺の由緒などは前回聴いた通りでしたが大変心に残った言葉がありました。「過去に”あの頃はよかったなあ”、”あの頃は楽しかったなあ”と思い出すことがある。その時の自分は”誰かに守られてその傘の下にいたからこその楽しかった”である」と。そうしたことに気づくことが「幸せ」です、というくだりでした。日々の何気ない事、当たり前の幸せに気づいて感謝することが大事だと。講話ではよく出てくる題材かもしれませんが改めてこんな場で聴くと、とっても心に響く内容でした。

 

今回も御朱印をいただきました。ニコニコ