九度山あるき。まだ暑さも本格的ではなく爽やかなくらいの時期に行っておいて良かったです。真田庵の次に向かったのは九度山・真田ミュージアム。
新しくてきれいな建物。真田三代の人たちが迎えてくれます。
真田は信濃国上田を拠点としていました。昌幸はその父の時代から武田信玄の家臣でした。小さい国の領主でしたから智謀の限りを尽くして戦国の世を生き抜きました。関ケ原の後、九度山で過ごしながら再び世に出る機会を伺っていました。
苦しかった九度山での蟄居生活時代の展示。幸村は真田紐を考案しました。お金のためでもありましたが、その主とする目的は全国を歩く行商人たちから世の中の情報を得ることでした。
これも真田紐~。
九度山で雌伏の時を過ごす真田親子。
大坂の陣へ。
大坂城に真田が入城したと聞いた家康は手をおいた障子をガタガタ震わせながら「父か?子か?」と聞いたそうです。それまで散々にやられまくった父の昌幸が大坂方についたら・・って思うとぞっとしたのかもしれません。既に亡くなっていることをも知っていたはずなのにです。昌幸は秀吉からは「表裏比興者(裏表のある卑怯者)」と警戒され、元の上司だった信玄からは「わが両眼の如し」と賞賛されていました。戦国時代の超大物武将たちからこれだけの評価をされてきた・・ということからも、昌幸の凄みが想像できます。
幸村は大坂の陣で壮烈な最期を遂げます。後世にはこんな物語も。
明智光秀や源義経もそうでしたが悲劇の最期を遂げた武将たち、実は死んでなかったよということにしたいのが庶民の気持ち。江戸時代の幸村はヒーローに。
大坂の陣の時の真田丸。家康をかなりのところまで追い詰めました。真田丸の模型、初めて見ました。これが大坂城の横に造られていたのですね。
2016年大河ドラマの時の題字。
なんか懐かしい。話が逸れますが、あの大河ドラマのオープニング映像には岡山県の備中松山城の石垣の映像が使われてました。5年前に岡山に旅行した時、地元のブロ友さんがここに連れていってくれました。
日本各地を旅していると、こうやっていろいろつながってくるものがあって面白いです。再びミュージアム展示品。これは幸村が実際に使っていた采配。
ここでも村正の刀・・。徳川家はやはり村正に呪われていますね・・
全部は紹介できませんでしたが、ここの展示、とっても面白かったです。