九度山歩き。お蕎麦の昼食を終えたあとに向かったのはお隣の真田庵。家康がとっても恐れた真田昌幸・幸村親子の屋敷跡です。関ケ原の戦で西軍についた二人は高野山に蟄居を命じられました。あれだけ東軍の妨害をしたのに死罪を免れたのは昌幸の長男・信之が関ケ原役の時に東軍についていたこと、また信之の妻が家康の重臣・本田忠勝の娘であり、彼らからの嘆願があったためといわれてます。昔は戦が起こると血を分けた兄弟、親子が分かれて戦うことがありましたが、これはどちらが勝っても家の血を絶やさないためにという判断があったためです。

 

私は豪快で陽性な印象のあるお父さんの昌幸がとても好きですが、父のほうは14年に及ぶ蟄居生活の途中で人生を終えてしまいます。息子・幸村はその後、大坂冬の陣に出陣、壮烈な最期を遂げます。豊臣家から受けた恩顧に報いるため、負けるとわかっていながら戦いに赴く姿にロマンを感じる人も多いですね。彼の戦いぶりは敵方からも「日本一の兵」と賞賛されました。

 

 

 

 

現在は善名称院(真田庵)というお寺になっています。江戸中期に創建されました。戦国時代の建物は残ってないのですが、ここがお屋敷の敷地だったと思うと、いろいろ想像が膨らみます。

 

 

 

重い石で封じられた井戸があります。幸村が取り押さえた「雷」をとじこめ、里人の難を救ったという。大坂の陣に加わることが決まった時も、幸村を逃してくれたのは地元の人たちだったといわれてます。彼が地元の人たちから慕われていたことが想像され、その「好かれる」人柄を感じました。

 

 

真田地主大権現。

 

このお寺で怒った姿の昌幸の霊が見られるようになったので、彼の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、再び昌幸の霊が現れ、お礼にこの地を守ると約束してくれたとのこと。ここには昌幸、幸村、大助の三人が祀られています。

 

 

こういうところではどなたかボランティアの方だったり、職員さんがいて案内してくれるのですが、この日は人の気配がなくて、説明を聴く機会がなくちょっと残念でした。資料館も誰もいなくて、境内をぐるっと歩いただけで終わりました。

 

 

 

 

 

 

この界隈を歩いているとそれぞれのお宅の前に「九度山」と書いた赤色の提灯がぶら下がっていたり、幟がはためいているのを目にしました。小さな町全体が真田父子で地元を盛り上げようとしているようです。真田庵の前やお隣のお宅も遠い昔からここに居住されてて、そのご先祖さまたちは真田父子と交流があったりしたのかな。あるいは一緒に酒を酌み交わしたりしてたのでしょうか。にっこりキラキラ

 

 

さてこの後は引き続き、真田関連のミュージアムへ。ここへも歩いて数分。塀の向こうに見える南国ぽい木。暖かい紀州らしくていい感じです。