舞鶴市の端っこのほう、加佐地区に出かけてきました。この後で訪れたお隣の福知山でも2月の残雪がまだうず高く残る場所がありましたが、ここもきっと積雪が多いのでしょう、傾斜があるどっしりとした屋根を持つ建物が多く目につきました。今回の目的地は加佐地区に残る茅葺民家。かつての大庄屋屋敷です。お屋敷の周囲には長大な塀が巡らされ、その佇まいから地域の特別なお家であったことが感じられました。

 

 

 

 

 

 

大庄屋というのは庄屋を束ねる立場の職責です。「庄屋」という言葉を初めて知ったのは多分子供の頃に観ていた「一休さん」のアニメだったかな? 庄屋は関西での一般的な名称で関東では名主、東北では肝煎りと呼ばれていたそうです。いずれにしても農民の身分でありながら武士の由緒を持つ者もあり、格式の高いお家であったと。

 

 

資料によると、この建物は江戸時代後期の建築。建物は国の登録有形文化財です。入館は無料でした。横の事務所に人がいらっしゃいましたが、自由に見ていって下さいとのことで、まず主屋のほうから見せてもらいました。

 

 

 

 

おおきい茅葺の屋根を背負っているだけでもこの家、重たそう。重厚な感じです。中が薄暗いの昔の家ならではですね。入ってすぐのところは土間でした。

 

 

おくどさん。

 

 

この竈のことはロクダイというのだそうです。

 

 

 

 

 

昔の家独特の黒い空間。というか、床や梁、柱などが近くでみると黒光りしていて、威厳を感じます。靴を脱いで上がりました。手前の黒板敷の部屋はクチノマっていうそうです。その次に繋がるのがザシキ、その奥がカミノマ。

 

 

 

 

 

武家屋敷、商人屋敷、料亭(遊郭)建築、豪農屋敷・・最近、昔の建物を見に行くことが多いですが、それぞれ明確な違いがありますね。ぴんと張りつめた武家屋敷の風ではなく、豪奢さを感じる商人屋敷とも違う感じ。ずっしりとした重厚な雰囲気、厳しい冬の気候を生きてきたここの地域の人の力強さみたいなのを感じる空間というか。全体の意匠にしてもちょっと控え目な感じもします。

 

 

 

上野家は初代が室町時代に伊賀国から移り住んだのが始まりなんだそう。伊賀国って今でいう三重県伊賀市。伊賀市と合併する前までは上野市というのがありました。上野という地名とも関係がありそうです。どういう理由で舞鶴の寒い土地に移住したのか。気になります。

 

 

 

蔵のほうも見に行ききました。立派な蔵が3つ。地域でいろいろ活用されているみたいです。

 

 

何世代も経ってるからこそ出ているこの陰翳に富んだ感じ、いいなと思います。

 

 

 

庭園。

 

再びみあげる。やっぱり重そう。白川村でみた合掌建築みたいに重さを逃がす建て方になっているのだろうな。

 

 

 

お屋敷の北東には荒神さまが祀られてました。荒神さまは民間信仰の台所の神様。外に祀る場合は鬼門を守る屋敷の神様として信仰されてきたのだそう。上野神社となってました。

 

 

 

この辺は空気がまだとても冷たくて梅も4~5分咲き程度のよう。楚々とした白梅が素朴なこの地域にとても似合っている感じがしました。

 

 

さてこの後はせっかく舞鶴の端っこまできたので福知山のほうまで行ってみよう、ということで次の目的地へ~。続きます。