中野先生の心の闇系の本は表向きの「きれいごと」の下にあるタブーの内側をみているようで興味深い。本書前半は脳科学者である中野先生による人間の脳に対する知見、後半はローマ史や異なる文化的背景の経験からくるヤマザキさんの考察が大変面白いと思いました。

 

印象的だった内容のまとめ:

*人間の脳は人間同士を近くにいさせたがるよう作られている。これは相互扶助による生存確率を上げるため。しかし、近づきすぎると今度は傷つけあうようセットされている。また脳は誰かと比べないと幸せを感じない。

 

*日本人はいじわる。礼儀正しい、親切、真面目・・という日本人論は一面的である。日本人は他国の人より「相手の得を許さない」「自分が損をしてでも他人を貶めたい」傾向がある。

 

*誰に対しても高潔さを求められる社会は息苦しい。

 

*生きることへの安定感や諦観は経験と思考の訓練によって身に着けていくもの。不条理や理不尽や失敗の経験はどんな甲冑を装着するより効果的。それには勇気と行動力が必要。スティーブ・ジョブズやレオナルド・ダヴィンチは私生児だった。一般的ではない理不尽な環境を子供の頃から容赦なく自覚させられた。

 

*自分が正義側に周ることの快感にある罠。それに対する多くの人の無防備さ。却って軽薄に見えてしまう。

 

*2000年代のネオリベラリズム台頭(日本では小泉改革)。これは排外主義とセット。寛容さ=無駄という考え方。国民の心理的傾向を顕在化できる人物が支持されるのか、またはそういう人物が国民をそのような心理に変えていくのか。

→民主主義は人類には時期尚早なシステムだったのかも。どうしてもポピュリズムに陥りがち。

 

*フェデリコ2世について。彼自身、世の中への憎しみを積もらせていた。でも彼は戦いや反乱ではなく文化や教養、芸術に怒りを昇華させた。

 

*「歌舞伎の演目には不条理な内容が多い。歌舞伎は怒りの要素でできている。」という六代目中村勘九郎さんの言葉。だから今のようにあらゆるライブや競技会が実施されない状況かでは人々は負のエネルギーをよいかたちで浄化できず、ネットで嫌なことを書きこんだり、暴動というかたちにエネルギーを転換させているのでは。古代オリンピックも戦争の代償として設けられたイベントだった。

→ドイツのメルケル首相は芸術家たちへの援助を表明した。経済生産性はなくとも守るべきものがある。

 

*我々は自由と民主主義が許された社会の中で暮らしていると思い込んで日々を過ごしているが、実態は「世間体」という具体的なかたちになっていないだけの民衆による強烈な統制力とその時々の流動的な倫理によって形成される正義感によって思想や行動の自由が容赦なく制限された窮屈な環境の中に置かれているともいえる。

 

 

 

随分前から増刷が続いている本なので、そろそろ読んでみようかなと。著者は医療少年院に勤務経験していたという児童精神科医。医療少年院に入る少年たちが特別悪質なのではなく、彼らはそのサインを小学校、中学校にいたころから出し続けていた。感情コントロールができない、人とコミュニケーションがうまくできない、集団行動できない、集中できない、嘘をつく、人のせいにする、嫌なことから逃げる、等々。サインの出し始めは小学校2年生くらい。こうしたサインを発していても大人も学校の先生もそれに気づかなかったりする。そこで適切な対応がなされていたなら、長じてから犯罪にはまるようなこともなかったのではないかと。犯罪者になってから罰して矯正というより、より小さい、まだ「サイン」を出している時点で適切な対応を行うことで、その子自身もより良い人生を送ることができたかもしれないなと思う。

 

この本を読んでいてふと思い浮かんだのが最近テレビのクイズ番組に出ている有名大学の学生たち。生まれつきの頭の良さ、容姿の美しさ、一流大学に入れ、メディアにも出る強運。実は彼らの姿をそのまま鏡に映したような「正反対」の立場の若者、子供が同じだけいるのではないかと。どれだけ勉強しても頭に入らない、頑張ることさえできない、それに気づく大人も周りにいない。それならば、もっと彼らに対する社会的ケアや見守りが必要なのでは、と思いました。