南越前町にある今庄宿を歩いてきました。江戸や京都に行き来する越前国の各藩や旅人が必ずといっていいほど利用したという北國街道の今庄宿は北陸の玄関口として繁栄した宿場町でした。全長1kmほど。疲れない程度に散策するにちょうどいい感じでした。この日、訪れた場所を時系列で紹介していきます。写真をたくさん撮ってしまったので2回に分けて掲載したいと思います。
まずはJR今庄駅を目指しました。駅舎は新しい建物でこじんまりした感じ。この横にある駐車場に車を停めて、まず駅舎内にある情報館に行き、街道の地図などを入手しました。わかりやすくて役に立ちましたよ。
駅前の風景です。
がらーんとした様子で人通りもまばら。この日、街道を歩いていてすれ違った観光客は多分、5人以内でした。なんか寂しいな。でも混雑と無縁なので嬉しい。さて宿場町は目の前の細い道を2~300mほど歩いた先にあります。最初は角を右に曲がってその道の端っこあたりまで歩きました。左側は次の記事に書きます。
昭和5年に建設されたという「昭和会館」。地元の篤志家が私財を投じて建てたものだそうです。この日は閉館されていたので外観の写真だけ。
その横にあったのは脇本陣跡。
本陣は大名や公家、勅使など偉い人たちが宿泊するために指定された宿舎。脇本陣は本陣だけに宿泊できない時などに使った予備の宿舎のこと。すぐ近くに本陣跡の公園があります。ここは明治天皇も宿泊したところ。その時の居室をそのまま移築したそうです。
ちょっと歩くと今度は一般人が泊る旅籠、若狭屋がみえてきました。
今庄では幕末に旅籠屋が55軒もあったそうです。べんがらの格子戸に情緒を感じます。現在はそば屋さんを営業されているようでした。
そして距離をおかずすぐ近くにあったのは今庄宿有数の旧家という京藤甚五郎家。
赤瓦の屋根に辛子色の土壁、そして両脇に持ちあがったうだつの構え。「うだつが上がらない」の「うだつ」とは隣家との境界にある防火壁のこと。これを備え付けるのに結構な費用がかかったので、当時は経済的に余裕のあるお家しか造ることができなかったのです。家屋は間口20mと他の町屋と比べてもかなり広く、迫力がありました。江戸後期から幕末の建築だそうです。
前に張り出している部分を「袖うだつ」と呼ぶそうです。
その斜め前くらいにあるのが「鳴り瓢」と看板があがった酒屋さん。「なりひさご」と読むそうです。
間口もそこそこ広いけれど、通りに建つ建物はその多くが、奥に長い構造になっていました。なのでかなり大きな酒屋さんです。
この建物にも歴史を感じます。この街道は濃厚に昭和の雰囲気が残っていました。
ここ、レストラン(料理屋さん?)のようでした。高そうな感じ。💦 通り過ぎるだけに。
町屋の雰囲気が素敵。
街道から山のほうに向かう細い道。
ちょっと山側の馬場跡のほうに向かいました。
ここ、カフェらしいです。あいにく、お休みでした。(´;ω;`)
山を背景に大きなお寺が。遠くから眺めただけですが、私が立っているのはお寺の前の広い広い駐車場。
昔は馬場だったそうです。いまは駐車場ですが、基本的にこの場所の役割は昔と同じですね。当時は伝馬を常備する決まりがあったそうです。大きな〇はヘリポートなのかしら。とりあえず、この時点まで殆ど人と行き交うことなく、時間が過ぎていきました。本当にどこに人がいるのだろうというくらい静かな街並みでした。後半に続きます。