滋賀県の北西部。湖西道路161号線を走っていると「中江藤樹」の名前がついた道の駅だったり、文化会館だったり、いろいろあります。ここの道を通るようになってから江戸時代の陽明学者・中江藤樹がこの地の出身だと知りました。といっても、あまり知らない💦。私の中での知識は「陽明学の人」、内村鑑三がその著作であげていた「代表的日本人」のひとり、あと、この人の影響を受けて江戸時代後期に乱を起こしたのが大塩平八郎、という程度。それだけ。ショック

 

このため、「中江藤樹」→「へ~うーん」くらいの反応しかなかった。でも、いまは近く(車で1時間の距離)にこの方の史跡が残っている。せっかくの機会だから、もう少し何か知ってみたいと思い、出かけてみることに。

 

 

最初に向かったのは中江藤樹の生家であり、書院(私塾)があった藤樹書院址へ。ここの見学料は無料。4~5台程度ですが駐車場もあります。きれいな休憩所もありました。もとの建物は明治初め頃の火事で大部分が消失してしまい、現在あるのは焼け残った蔵と門と、規模を小さくして再建された書院。でも額縁や愛用品のいくつかなど火を逃れたものがあり、それらを見せてもらうことができました。

 

 

中江藤樹の像。

 

陽明学ってなに?って私の場合、ここから始めないとよくわからなくて。ここにいらした方が「なんでも聞いてください」って仰ってくれ(喜!)、いろんなことをいちから教えてもらいました。私が理解したことを簡単にまとめると・・・儒学の一派であるけれども、「理」を説く朱子学に対し、陽明学は「心」の部分にフォーカスした学問であるということ、という感じでしょうか。

 

藤樹は朱子学、陽明学の双方から学び、仏教・道教の教えなども取り入れ、独自の学問を形成しました。この書院址がある場所に私塾を開いて、たくさんの門下生を教えていたそうです。下は資料としていただいたプリント。今でも高島市の子供たちはこういうのを勉強するそうです。

 

 

 

江戸時代は、ここで学んだこと自体が大変なステータスであったため、門下生は日本各地の藩から積極的に迎えられたそうです。有名な門下生のひとりが熊沢蕃山。備前藩主の池田光政公が陽明学に傾倒しており、藤樹の教えをうけた蕃山を重用したそうです(家老)。蕃山って岡山の有名な閑谷学校の前身をつくった人。閑谷学校とは日本で初めて身分の差なく学ぶことができた学校です。いまも備前市に残ってて講堂とか国宝になってます。また別のお弟子の淵岡山という人は京都の晴明神社近くで教え、そこから出た門下生は数多くの学派を生み出し、教えを全国に広げるに至ったとか。

 

下の扁額は肥後細川藩に召し抱えられた老臣・分部昌命によるもの。肥後細川藩は陽明学を重用し、その藩主末裔である元総理の細川護熙氏もしばらく前にここへいらっしゃったと伺いました。資料館のほうに細川氏が書かれた立派な書が展示されていました。ニコニコ

 

 

下の写真、柱の文字は伊藤仁斎の書を竹に写したものだとか。伊藤仁斎は江戸期の儒者。こんな人もきているんですね。なんだか日本史スター級の人がいっぱい出てきて驚く。

 

 

大塩平八郎とのつながりもたずねてみました。大塩平八郎は江戸時代後期の儒学者です。天保の飢饉で苦しむ人たちを救おうと乱を起こした人。

 

ここで面白い話を聴きました。大塩が乱を起こす前にこの学校で教えていたため、その門下生が、この土地(小川村)にもいたそうです。乱に参加した者もいたそうです。でも時の政権に刃向かったとなると、もうこの田舎の村にはいられなくなります。そこで門下生は薩摩藩に逃げたのだとか。当時の日本では薩摩藩は鬼島津っていわれたりしてて、なんだか底知れぬ怖さがあった藩。ここに逃げ込んだらいくら江戸幕府の役人でも捕まえられなかった・・みたいな事情があったみたいです。天下の徳川幕府でさえ遠慮してしまうのが薩摩藩という、この島津の存在感がやっぱり特異な感じで面白いなと。30年ほど前にその子孫という方がここを訪ねてこられたことがあったと伺いました。奄美大島で貿易商の仕事をされているのだとか。なんだか歴史がそのまま現在につながるお話が聞けたような気持ちになり、面白かったです。

 

そういえば幕末の思想家、吉田松陰も陽明学を深く学んだ人です。陽明学は心の学問・・と理解したと上に書きましたが、朱子学は組織をがちっと構築するために適した学問だと思いますが、陽明学は時にそれが大きく振れすぎて、過激な方向に走ってしまうこともあるのかと思いました。

 

「到良知」の透かし彫り。藤樹の教えの大事なもののひとつです。

 

なんとアーティスティックな!と感銘を受けましたが、こういう字体がもともと中国にあるんだとか。中国からみえるお客さんは割とこれに気づく人が多いそうです。

 

 

書院の中にはいってまず視界に入ったのがこれ。壁一面に位牌を並べたようなものがありました。

 

でもこれ、位牌ではなくて、儒教でお祀りするものだそうです。真ん中が藤樹夫妻、そのそれぞれ横に両親、曽祖父のものが並べられていました。

 

外に出てみます。明治の大火で唯一焼け残ったのがこの蔵と門。

 

 

書院の前に用水路(って呼んでいいのかな)が流れているのですが、これがとってもきれいな水で。鯉がたくさん泳いでいてびっくりしました。

 

 

 

 

 

数年前に山口県の萩を訪れた時に地元の人の吉田松陰に対する敬慕の気持ちをとても強く感じましたが、ここでも藤樹に対し、同じような印象を受けました。ここで働いておられる方々やあとで訪れた資料館の方々が、さりげなく口にされる「藤樹先生」という呼び方。また藤樹に因む資料館、神社、書院、墓所など、どこもがとても美しく維持されていて、地域で今に至るまでとても大切にされ、地域の誇りであるのだろうということも感じました。

 

この後、資料館と藤樹神社にいったので、次はそのことを書きます。