徳川家康15巻目「難波の夢の巻」を読み終えました。
側室淀君に秀頼が生まれたことによる秀吉と甥の秀次との関係の悪化、
無謀な朝鮮出兵(文禄、慶長の役)についての下りです。

考えてみれば秀次ほどかわいそうな人もいなかったと思います。
秀吉という不世出の英雄の甥に生まれたばかりに
人生を翻弄された人であったからです。
淀君が最初生んだ鶴松が亡くなったことで、
本人が望んだわけでもないのに豊臣家の後継ぎにされ、
今度は秀頼が生まれると疎まれてしまいます。
本人の意思は全く働かず、操り人形のように生きた秀次自身、
葛藤を感じなかったことはないはず。

秀吉から疎まれるようになった秀次はいろいろ理由をつけられて
高野山で切腹させられます。

別の本で読んだのですが、秀次切腹と側室子供たち処刑の黒幕は石田三成だったという説があります。
秀次切腹後、秀次が囲っていた側室と子供たち40人近くが
京都三条河原の河川敷で無残に処刑されています。
(以前このことを記事にかきました。)

石田三成は後年、関ヶ原の役で西軍の将となりますが、負けたあと、六条河原で処刑されています。
三条河原から鴨川沿いに南に下ったところで
側室子供たちの処刑場からそれほど離れていません。
やったことは自分に返ってくるといいますが、そうした因縁を感じる話です。

私は本を読む時、気になる表現や言葉の書いてあるページを折り曲げたり、
その部分に線を引いたりしているのですが、この巻で線を引いた箇所のひとつ:

「人の眼の届く範囲には限りがある。年齢もそれを見えなくする一つじゃが、
 権力もまたその一つ、そして溺愛もなあ・・・」

秀次に切腹を申し渡した秀吉について、それを観察していた誰かが言ったセリフです。

老い、権力、誰かへの溺愛。
不世出の英雄と評されたほどの人間の眼さえも
これらによって曇ってしまったのでしょうか。