小説「徳川家康」、
7巻目の「颱風の巻」、
8巻目の「心火の巻」、
9巻目の「碧雲の巻」の三冊を読み終わり、
いま10巻目です。

普通の長編小説ならこの辺で読了なのですが
ようやくこれで3分の1。
まだまだ長い旅です。

7巻目は武田勢の包囲下での奥平九八郎の籠城から始まります。
三河武士の典型、鳥居強右衛門の壮烈な最期。
これは先日出かけた岡崎城の資料館の展示にもありました。

織田、徳川勢の銃火の前に壊滅状態となる武田の騎馬隊、
信長の家康への正室築山殿と長男信康の処刑命令、
そこへ決戦を挑んだ武田勝頼の哀れな最期。

宿敵武田氏を滅ぼした信長も、数か月後には
明智光秀の謀反で、天下統一の志半ば京都本能寺に斃れます。
その光秀も中国攻略から舞い戻った秀吉に討たれてしまいます。

戦国の世はまるで猫の目のように、くるくると様相が変わっていきます。
もうここまで読んでくると、これまで物語の中央にいたはずの
信長の姿はなく、日の昇るがごとくの勢いで秀吉の存在感が急速に増してきました。

その秀吉と、秀吉の台頭を快く思わない柴田勝家との対峙。
あくまでも秀吉に屈することをせず、全く勝ち目がないとわかっていながらも、
意地を貫き通いた勝家と彼に従って死んでいったお市の方の最期は
哀しみを誘う場面でした。

いろいろな作家が戦国時代の武将について取り上げて小説を書いています。
違う小説家が書けばまた違うイメージの人物として描かれます。
だから小説の内容のごくごく細かい部分を取り上げて、
史実がどうであったかと議論するのは少し焦点がずれているような気がします。
小説が目指すところのものは「人間とは何か」を描くことであり、
史実云々は、その物語を描く上での材料に過ぎないと思うからです。

この小説に登場する数多くの武将を通して、
山岡宗八氏の人間観を大変興味深く読んでいます。