週末、津方向に向かう途中、
ふらっと浄眼寺(じょうげんじ)に寄り道しました。

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以前からちょっと気になっていたのです。
浄眼寺は伊勢国司 北畠家の菩提寺。
国司とは古代から中世の日本で中央から派遣された官吏のことで
祭祀・行政・司法・軍事を司り
その地では絶大な権限を持っていました。

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浄眼寺の建立は1487年。随分由緒あるお寺です。
でも当時の建物は残っておらず後々に再興されたものだとか。
山門は宝暦年間(1751~1764)のもので近くで見ると苔むして
歴史を感じます。そのほかの建物はそれほど古さは感じませんでした。


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梅の花がきれいに咲いていました。

このお寺の裏手の山にその昔、阿坂城という城がありました。
地元では「白米城」と呼ばれています。

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お城は小高い山の上にあったということですが
現在は何も残っていません。
石垣がポピュラーになるのはもっと後の時代のことですから
当時はこうした山の形状を利用して城郭を築いたのでしょうか。
ヨーロッパでも山や岩を利用した要塞のような中世の時代のお城を
見たことがありますが、日本もそんな感じだったのかな。

阿坂城の名前は南北朝時代の資料に出てくるそうです。
私はこの時代のことはあまり詳しく知らないので、
たいしたことは書けません@@;

地元の人だったら誰でも知っているのは
白米城の由来というのは、「白いお米」ということ。

その昔(多分、南北朝だったころ)、
城主の北畠氏は足利幕府軍に攻められ籠城するのですが
敵軍に水を断たれてしまいました。
さあこれで相手も降参してくるだろうと思った幕府軍を前に
籠城軍は馬の背に白米を流し、それを水に見せかけた・・とか。

遠くから見ると白いお米が水のように見えたそうです。
水なんてまだまだあるぞ、と反撃したのか。
お互い、精神的にも追い詰められた状況にあったから、
籠城軍の意外な反撃に
幕府軍も士気をくじかれたのでしょうか。
これによって幕府軍を撃退したという話が残っているそうです。

でも結局はその後に織田軍が攻めてきて、
阿坂城は豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)に
攻め落とされてしまうのですが。
この地にも大変な戦乱の時代があったのですね。

阿坂城跡は下からみると、それほど高い山には見えなかったので、
15分も歩けば頂上かと思いましたが、甘かったです。
ある程度登ってしまったら途中で引き返すのも悔しいので、ひたすら上り続け、
結局40分くらい(いや、もうちょっと?)かかりました・・
もし看板に「あと〇分」とか書いてあったらすぐ諦めたのに。

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頂上からの景色はなかなかきれいでした。
桜の木が植えてあったので、
桜の季節はさらに美しい景観を楽しめそうです。

でもとにかくしんどかったです。
とりあえず行ったお城の数がひとつ増えた週末でした。