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京都の市街地は道が碁盤の目のように通っています。
木屋町通りは京都の繁華街にある南北の通りの名前、
すぐ横を高瀬川が流れています。
この界隈は飲み屋さんとか多くごちゃごちゃした印象が強いですが
史跡関係のものがたくさんあります。

先週、京都に行った時、夕食を木屋町三条でとり、
その後、四条に向かって木屋町通りを南に向かってぶらぶらと歩いていたところ、
ふと、通り沿いにお寺があるのに気付きました。
門の前に「豊臣秀次公乃墓」と刻まれた石碑が建っていました。

豊臣秀次は秀吉の甥です。
叔父である秀吉の命で切腹させられ、
その際、妻妾子女の併せて39人が三条河原で処刑されているのですが
このお寺はその一族の菩提を弔うために建てられたものだそうです。

学生時代もこの辺りをよくうろちょろしていたはずなのに、
あの頃は日本史にもたいして興味がなかったからか、
多分何度も素通りしていたようですね。

豊臣秀吉は、姉の息子である秀次を養子にして「関白」の地位を禅譲し、
当初は彼を跡継ぎにするつもりでした。
でも最愛の側室淀君に男の子が生まれました。
自分の息子が生まれると、やっぱり、甥とはいえ秀次のことが邪魔になったのでしょうか。

謀反の疑いとか、いろいろ理由をつけて秀次を切腹に追い込んでしまったのですが、
一緒に妻や側室や子供を皆殺しにしてしまったというのも残酷な話です。

そういえば去年か一昨年に、どこかの企画展で
この時の処刑の様子を描いた絵を見たことを思い出しました。

河原には聚楽第から連れてこられた女性達や子供達が集められ、
上方には先に切腹で果てた秀次の首が両開きの箱に収められて置いてありました。
怯える子供達をなだめる若い母親の姿と
数珠を手にした数人の僧侶の姿とかが描かれてあって
その数十分後の光景を想像しただけで悪寒が走りそうな絵でした。

子供達は串刺しにして殺され、女性達は順番に処刑され、
川は血の色で真っ赤に染まったそうです。
まるで地獄絵図そのものです。
遺体は親族に引き取られることが許されず、
河原に大きな穴を掘ってそこに全員の遺体が放り込まれ塚が築かれました。
塚の上には秀次の首を収めた櫃が見せしめとして晒されていたのだとか。
このエピソードだけでも晩年の秀吉の狂気が十分に目に浮かぶようです。

当時は鴨川の位置が今よりも左寄りだったので、
このお寺の境内のある場所がまさにその処刑の場の河原であったそうです。
秀吉はこの塚を「畜生塚」と呼ばせたのですが、
この塚があった場所に今は本堂が建っています。

一族の殆ど全員を殺したのは、
後世に秀次の血を残さないためだったのでしょうが、
中には御殿にあがって3日目の女性もいたそうですし、
まだ13とか16歳の女性もいました。娘じゃなくて側室で。
母と娘を一緒に側室にしていた例もあったそうです。

秀次は、高野山に追放される前には、
むやみやたらに人を切り殺したり、横暴を働くので
「殺生関白」と呼ばれていました。

しかし、この時代に日本に来ていた外国の宣教師が書き残した記録には
「秀次は大変思慮深く、穏やかな人物であった」
とされていたりするのを考えると、秀次の凶暴な人物像は、
後になって造られたものかもしれませんね。
歴史というのは常に勝者にとって都合の良いように書き換えられるものですから。

秀次一族の霊位のために献灯をお願いします、とありました。
蝋燭を一本あげてきました。
女性や子供達の不幸を想うと胸が痛みました。

今は観光客であふれ、賑やかで活気のある木屋町通りですが、
数百年前の暗澹たる歴史の側面を見た日でした。

昨日は仕事帰りに寄った整体院で先生とこの話をしていたのですが
なぜか、タイムマシンがあったらどの時代に戻りたいか、って話題になりました。
小説で読んでいる分には面白いけど、
戦国時代は怖くて嫌ですね。
幕末の京都だってそうそう安心して歩けなかったくらい物騒だっただろうし、
平安時代も末期になると相当荒廃していたようですし。

とかなんとか嫌な理由ばかりが挙がって、
そうやねえ、やっぱり太平の江戸時代で、
それも文化が興隆した元禄時代とかいいかもねえ、
と、そんな戯言を言ってました。
それかやっぱり車で日帰り観光できる現代が一番かもね。