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私は日本史の中でも戦国時代や江戸末期~明治期にかけてなど地が震うように揺れた激動の時代、変化の時代に惹かれます。
戦国時代というのは凄い才能を持った武将達が日本を群雄割拠していた時代、それぞれの武将達の駆け引き、戦略、戦の仕方とかに非常に興味をそそられます。
関ヶ原の戦は長く続いたその戦国時代のファイナルステージみたいなものでした。
関ヶ原は秀吉亡き後に天下を手中にしようと企む徳川家康の東軍と、豊臣家の安泰を守るために家康の企みを阻もうとする石田三成の西軍が結集し、天下分け目の合戦が繰り広げられた場所です。

一月の寒い日、行き当たりばったりで関ヶ原までドライブに行くことになりました。関ヶ原は実は二回目目。前回にここを訪れたのは五月でした。あの時は突然思い立ってひとりで電車に乗って行き、駅前で借りたレンタルサイクルで地図を見ながら陣跡などを周りました。でもたった半日で周るには関ヶ原は広すぎました。車ならもっと効率的に見て周れるかなと思いきや、現地は一面の雪野原。寒い。寒すぎ。車の外に出たくない~。

最初に石田三成陣跡である笹尾山に行きました。笹尾山は山というより丘みたいなところで通常なら登れるのですが、雪の上を歩こうとしたらズボっと雪の中深く足が落ち込んでしまい、それ以上進めず。
予定を変更して歴史民俗資料館に行きました。ここでは両軍の布陣の様子や各武将の経歴などがわかりやすく展示されていました。寒い日の平日であったせいか殆ど貸切状態で好きなものを好きなだけじっくり見ることができて有り難かったです。

歴史の教科書にもある通り、結果は家康の東軍が勝利します。
しかし戦いは最初から東軍が優勢という訳ではなかったようです。決戦直前の陣形図は西軍が東軍を包囲する「鶴翼の陣」と呼ばれ、まるで鶴が翼を広げて相手を包み込むかの形をしていました。それに人数も西軍のほうが多い。また敵よりも高地に布陣することは勝利への常道であったそうで、明治期に日本陸軍に招かれて日本に来たドイツ人のメッケル少佐は即座に西軍の圧倒的勝利を指摘したそうです。

緻密な計算を重ね、練りに練った陣形に石田三成も当初は勝利を確信していたようです。でも西軍の武将達の殆どは三成が期待したように動きませんでした。右翼にあたる南宮山の毛利軍は一兵も動かさず、反対側の松尾山に布陣していた小早川秀秋は徳川方に寝返り味方に攻撃をしかけます。これを機に西軍の陣形はどっと崩れ、一気に敗色が濃くなります。

味方に裏切られ次々と崩れていく自軍を目のあたりにした三成の心境はどんなものだったのでしょうか。三成は行政や財政には大変優れた人物でしたが武将達の心を掴み切れていなかったのですね(私は石田三成って結構好きなんですけどね)。人心収攬の術という面では家康が遥かに上だったようです。データや計算値だけでは物事は運ばない、結局は人の心をどうやって捉えるか、これが最終的な勝ち負けを決めてしまったのでしょう。今の時代でもこのテーマは同じかもね。写真は積雪で登れなかった笹尾山と西軍と東軍が最後まで戦った合戦最大の決戦地。