台風が接近しつつあるが、金曜日は久しぶりに雲間から晴れ間ものぞく天気だった。
長雨の中、室内で過ごすことが多く、すっかり足がなまってきてる。
しかし、この日は午後から用があるので山歩きは無理だった。
そこで久しぶりに西国分寺駅の近くにある武蔵国分寺跡を歩いてみた。
西国分寺駅を出て中央線をくぐって南にまわり、団地の中を抜けて東に出ると広い道に出る。
ここが古代の大道跡だそうで、その範囲を歩道として保存してある。
中世の古道などとは比較にならないほど幅がある。
この大道は、府中市にある武蔵国府と群馬県を通っていた東山道を結んでいたと推定され東山道武蔵路と呼ばれている。
以前来た時は、ここの東側は広い空き地だったが、今は東京都の公文書館や国分寺市役所が建っていた。
それらの建物の裏手、東側は広い空き地が整備されて武蔵国分寺公園となっていた。
古代大道の跡はその先の道路で途切れて、その先は民家の間の普通の道を南へと歩いた。
すぐに下り坂があらわれる。
そこが武蔵野台地と多摩川の旧河川敷との境となる国分寺崖線だ。
その崖の上に八幡神社があり、その東にお寺のお堂が見える。
神社の森の小道を抜けるとそのお堂に出る。
ここは現存の国分寺の薬師堂だった。
このお堂は新田義貞が寄進した建物を移築したものと伝えられている。
大概の国分寺は地名に残るぐらいだが、武蔵国分寺は現存している。
といっても昔の規模からくらべれば小規模になって建物は後代のものだ。
薬師堂から崖を階段で降りる。
崖の中段にある仁王門。
朱に塗られた仁王様はなかなかしっかりと彫られたものだ。
もちろんこれは建物とともに江戸時代宝暦年間のもの。
さらに階段を下るとがけ下に出た。
現存の国分寺の墓地の脇を通り、いよいよ古代の武蔵国分寺跡に入る。
以前来た時は広い敷地に建物跡の位置を示す標識や柱が点在していたと記憶しているが、
今は歴史公園としてかなり整備が進んでいた。
北から歩いてきたのでまず講堂跡がある。
発掘で確認された位置に石積みの基壇型が表示されていた。
その隣には川原石で縁取りされた金堂基壇跡が再現されている。
保育園の子どもたちが駆けまわって遊んでいた。
金堂跡の南側には参道の位置が舗装の道として表示され、途中に中門跡も柱で示されていた。
このあと南門跡を確信し、西にむかって武蔵野線をくぐって、国分尼寺跡に行ってみた。
ここもかなり整備が進んでいるが、住宅や武蔵野線が隣接していて未発掘の部分が多いようだ。
草も伸びていて、かえって遺跡らしい雰囲気だ。
中門跡が示してあったが、斜め半分は道路と民家の下だ。
金堂跡は全体が示してある。
金堂の裏手に講堂があると推定されているが未発掘らしい。
そしてそのすぐ北に僧房あとの礎石が示してあった。
ふたたび国分寺跡に戻り、敷地の南東隅にある七重塔跡にむかった。
七重塔跡は2つ見つかっているそうだ。ここがその一つ。
塔の高さは60mもあったと書いてある。
最初の塔は落雷で焼失し、100年後あたりに男衾郡(今の埼玉県比企郡)の壬生吉志福生という人物が再建したと解説されている。
その塔も10世紀前半には失われてしまったらしい。
七重塔からは北上し、国分寺崖線にちかづくと武蔵国分寺資料館がある。
このあたりの地主だった旧家の敷地を利用しているらしい。
門前のカフェでチケット(100円)を買い、長屋門をくぐってはいる。
敷地の中に七重ノ塔の模型が建っていた。
武蔵国分寺の敷地の中心部が模型として展示されていた。
説明を見ると最初に通って来た崖上にある現存国分寺の薬師堂も敷地内に含まれるのだ。
そして資料館ももちろん敷地内にあることになる。
写真の左隅の広い道が、最初に見てきた東山道武蔵路で、そこまでが国分寺の敷地になる。
実に広大な敷地だったことがわかる。
資料館には、発掘で発見されたいろいろな種類の瓦などが展示されていた。
資料館を出て、お鷹の道と名付けられた湧水の流れに沿った細道を歩く。
なかなかいい散策路だ。
途中で崖の方から別の流れが合流してくる。
その流れにそって歩く。
崖下に真姿の池と呼ばれる小さな池と祠がある。
そしてそのすぐ近くに整備された石積みの間から水がこんこんと湧き出していた。
武蔵野台地にしみ込んだ雨水がこのあたりでいくつも湧き出しているのだ。
このあと崖をのぼり、国分寺敷地の北限を確認して国分寺駅へとむかった。
現地でもらった案内図をのせておこう。
午後から用事があるので少し駆け足の遺跡歩きになったが、ほんとうに久しぶりに長く歩いたので疲れてしまった。
後期高齢者ともなると意識して歩かないとすぐに足が衰えてしまう。
山に行けない日もチャンスがあればまたどこかを歩こう。
実際その日は疲れたが、翌日からは体調がいいぞ!
















































