i伊豆ヶ岳は奥武蔵と奥多摩との境界付近、吾野と秩父を限る稜線にある山だ。

西武線の正丸駅からのぼるのが普通だ。

車なら名栗から横瀬に抜ける山伏峠から手軽に登れる。

 

 

10年前の秋に正丸駅から登り、帰りは正丸峠からは稜線をはずれて道路を使い、

途中から旧正丸峠道をくだって駅へともどった。

11月中旬、奥武蔵の山は秋たけなわの季節だ。

 

 

正丸駅を出ると南に向かって線路わきの階段をくだる。

秋のあたりはまだ木々の葉も色づいていない。

小川を渡って線路の下をくぐり山へとむかう。

 

 

しばらくは小川に沿って登っていく。

 

 

 

狭い沢筋の谷間ではあるが南斜面には民家がある。

沢が二つに分かれており、伊豆ヶ岳には左の沢をつめる。

ところどころで大きな岩もみかけるようになった。

 

 

やがて急な尾根を登るようになってきた。

 

 

行く手にこれまで見てきた岩とは比較にならない巨岩があらわれた。

そしてその上には紅葉の樹木が。

 

 

 

覆いかぶさるような巨岩の下には空間があって、これは雨宿りにつかえそうだ。

 

 

伊豆が岳が近づくと急な尾根道になって、木の横木をならべた階段になってきた。

 

 

よく整備されているが、やはりこういう道は歩きづらい。

 

 

正丸峠と伊豆が岳を結ぶ尾根に出るとすぐに伊豆ヶ岳の岩場が見えてきた。

ここの岩はもろいのだろうか、落石注意の看板がある。

事故も起こっているらしく、岩場を避けた女道を利用するよう案内が出ていた。

 

 

近づいてみると大きな一枚岩に鎖がかけられている。

場所によって胃は何本もの鎖がかかっていた。

岩肌が人の足によって磨かれて輝いて見える。

 

 

 

そこからは、北側に西武線より東の奥武蔵では最高峰の丸山が見える。

 

 

 

こちらはお隣にある武川岳と奥に二子山。

その間に武甲山の頭だけは見えている。

 

こうしてみると武川岳は斜面はスギなどに覆われているが、

尾根筋だけは落葉樹が残っていることがわかる。

 

 

こちらの伊豆ヶ岳も同じかもしれない。

山頂や稜線には盛りの紅葉が見られる。

 

 

伊豆ヶ岳851mの山頂に到着。

伊豆ヶ岳は岩場もあるが、土が柔らかくて足元が崩れやすいところがある。

 

 

山頂は小広くなっていて休憩にはちょうどいい。

赤く染まった木もあって目を楽しませてくれる。

 

 

山頂で一服後は、同じ道を少し引き返し、そのまま尾根どおしに正丸峠にむかった。

 

 

車道が通ている正丸峠に出ると視界が開ける。

正丸トンネルが開通するまではこの峠道が国道299号線だった。

見下ろす尾根が黄葉で彩られている。

 

 

吾野の谷の向こうに関東平野が広がっていた。

 

 

車道歩きはつまらないようだが、この季節は色づいた山の斜面などが見えて楽しめる。

 

 

日差しを受けて明るく輝く森。

 

 

青空に黄や赤が鮮やかに映える。

 

 

車道はさらに続いて国道の正丸トンネル入口へと続いているが、

それでは遠回りなので途中から山道をくだって正丸駅へと戻る。

 

 

この道は旧正丸峠に登る道なので、古くからの峠道だ。

こういう道の途中には古びた石仏がある。

 

沢筋まで下ると道は幅も広くなって歩きやすくなった。

 

 

山麓の集落に出てきた。

道に沿って地蔵様などを安置したお堂が並ぶ。

 

ここから正丸駅はもうすぐだ。

 

 

 

 

前回の見沼代用水歩きでは東大宮の東西分流点を紹介したが、

今回は、見沼代用水の事実上の出発点と元荒川を横断する柴山伏越を紹介しよう。

 

見沼代用水は利根川を水源とするが、途中までは星川という内陸河川を利用している。

利根大堰で取水された水は、秩父鉄道武州荒木駅の近くで星川に流れ込む。

菖蒲町で星川から分流した先が人の手で開削された部分だ。

 

奥が上流。

星川はここで右手に曲がっていく。

見沼代用水は、この地点から水を取り込んでいる。

 

水の取り込み地点に水流調整の水門がある。

 


水門にそって橋がかかっていた。

 

コンクリート製の水門に螺旋階段が取り付けられ、上にあがれるようになっている。

スピーカーがついているのは、水量が増えるときの警報をながすのだろうか。

 

この時は妻もいっしょで車で来ていた。


 

この後、車で元荒川の柴山伏越へと移動した。

 

元荒川との交差点をgoogleを使って紹介しておこう。

用水より低い元荒川を横断するために、ここではトンネルを掘りぬいて元荒川の下を通したのだ。

サイホンの原理を応用した仕組みだ。

この難工事を指揮したのが紀州から来た井澤弥惣兵衛為永だ。

 

これを読むと、地下に木製の樋を埋めてその中を流したようだ。

 

江戸時代の柴山伏越の様子を描いた絵。

 

 

 

井澤の工事は実に正確で、しかも60kmもの工事をわずか6か月で完成させ、ほとんど狂いがなかった書いてある。

 

ここには井澤弥惣兵衛が吉宗に招かれ、旗本となって河川改修や新田開発で活躍し、勘定吟味役に昇進したと書いてある。

その中で最大の工事、功績がこの見沼代用水の開削だったそうだ。

 

柴山伏越のすぐそばにある常福寺にその井澤弥惣兵衛為永の墓があり、

恩恵を受けた流域の人々による顕彰碑がたっている。

 

 

お寺から用水の水門をながめる。

その向こうには菖蒲の田園風景が広がっていた。

 

元荒川のながめ。

元荒川も、熊谷付近で荒川とは切り離され、今は農業用水として利用されている。

 

 

 

 

 

 

さいたま市の東部に見沼田んぼというところがある。

その田んぼをうるおすためにつくられたのが見沼代用水だ。

 

徳川吉宗の時代、お米の増産のため新田開発をすすめた幕府は、ここにあった見沼を埋め立てて田んぼにしようとした。

しかし、この見沼はその下流の田んぼの水源でもあった。

埋めてしまっては下流のお百姓が困ってしまう。

そこで、利根川の水を用水としてここまで引いてくるため作られたのが見沼代用水だ。

この用水建設のために吉宗の地元、紀州から土木技術者をつれてきた。

井澤弥惣兵衛為永という人だ。

 

この時は、東大宮駅から出発し、JRの東大宮操車場を用水が横切っているところに向かい。

そこから代用水をさかのぼってみた。

 

東大宮駅から歩いて代用水にかかる築越橋にでた。

 

 

そこから西を見ると代用水に沿った道が操車場をまたいでいる。

 

そのスロープの途中から操車場を臨む。

代用水は、操車場の脇を流れる芝川の下を伏越で潜り抜けている。

 

操車場の向こう側はなんども来ていたのでそこから引き返し、用水をさかのぼる。

築越橋の東側は、用水が暗渠にされて、その上は東大宮親水公園になっていた。

地理院地図を見ると今でもここは開渠として表示されている。

このあたり、台地に切通しをつくって用水を流していたのだ。

 

代用水の暗渠の上を歩いて、第2産業道路を横切りしばらく進むと代用水が再び姿をあらわす。

 

国道16号線をくぐると代用水が東縁と西縁にわかれる地点についた。

見えている学校は上尾市立瓦葺中学校。

 

ここまで流れてきた水を東縁と西縁に分水する調整堰がある。

 

 

分水地点のすぐ西で代用水は、綾瀬川の下をくぐっている。

でも昔は、ここを木製の橋で渡していた。

その水道橋を掛樋(かけとい)と呼んでいた。

昔の様子がレリーフにしてあった。

 

 

現在は綾瀬川の下を伏越でくぐってくる。

代用水の方が綾瀬川より水位が高いので橋の方が合理的だが、

木製の橋では長年の風雨には耐えられないのだ。

ここは伏越の上流側なので、ここで水は下へともぐっていく。

 

東西に分水した状態で綾瀬川をくぐっているようだ。

 

こちらは用水の上を流れる綾瀬川。

綾瀬川はここから南東へと流れて草加へとむかう。

 

東縁へとむかう代用水はカーブして南へとむかう。

 

南に分かれた代用水は見沼田んぼの東縁を流れていく。

 

このあと代用水をもう少しさかのぼって蓮田の町に入り、蓮田駅に出て帰った。

次回の投稿では、さらに上流にある井澤弥惣兵衛為永の記念碑付近を歩いたときのことを紹介しよう。