つづき

 

どちらかと言えば「その2」に関連させて、

 

今日はちょっと横道にそれたい。気分転換だ。

 

新しいビーサンを買った。ずっと泊まっていたホテルに備えつけてあるものだが、販売もしていた。

 

今まで履いていたタイ製ビーサンよりはるかに履き心地が良い。

 

ビフォー(履き心地の悪いタイ製ビーサン)

 

 

アフター(今回ホテルで見つけた優れものビーサン、なんとこれもタイ製だが一般には売ってないようだ)

 

 

ぼくがここまでビーサンにこだわるのには訳がある。笑

 

ビーサンというか「鼻緒のついた草履」と言っても良い。

 

この日本の伝統的な履物「草履」には健康への深い造詣がある。

 

日々、草履を履くことによって起こる健康効果についてブログがあったのでそこから抜粋したい。

 

論より証拠なので、興味のある方はビーサン、草履ライフにチャレンジして欲しい。人生変わるかも。笑

 

抜粋開始〉

⭕️草履を履くことで土踏まずの形成が促進される

☑️草履は、足首が固定されておらず、鼻緒を足指で挟んで履く構造

☑️脱げないように鼻緒の部分をしっかりと足指でつかむので、普通の靴を履いている時よりも、足指がしっかりと使われる

☑️足指が鍛えられていないと、踏ん張る力がなく、フラついてしまい転びやすい

☑️逆に足指が鍛えられていれば、地面を踏ん張る力もつき、土踏まずの形成も促進される

⭕️草履は、浮指、扁平足などの足トラブルを防ぐ

☑️足指が鍛えられていないと、「浮指」や「扁平足」といった状態を起こしやすい

☑️浮指になると、地面を踏ん張れずフラフラしたり、バランスの良い姿勢を保てなくなる

☑️土踏まずには、衝撃を吸収する、体のバランスをとる、重心の移動効率を高める役割があるが、アーチが形成されないと「転びやすい」「疲れやすい」「足が痛みやすい」といった症状が起こる

☑️草履を履くと、足指がしっかり使われて、浮指や偏平足などの足トラブルを防ぐことができる

 

足は正しい姿勢を取るための土台となるので、草履を履いてトラブルのない健康な足を目指そう

 

⭕️草履を履くことで脳を活性化する

 

☑️草履は素足で履くので、靴下の上から靴を履いた状態よりも地面の感覚を受け取りやすい状態になる

☑️例えば、砂浜を歩くとき、砂利道を歩くとき、アスファルトの上を歩くときでは、足の感覚が全く違う

☑️様々な感覚が足から伝わり神経が刺激されるので、脳が活性化する

 

〈抜粋終了

 

ソース

 

 

 

 

 

 

 

 

政木和三さんは大学の先生だったが、超能力の持ち主で、念力で人を殺すこともできた。いかに抜粋あり。

 

昨年九月変質者ユダヤ人の Elroi Levy が現れて以来、おかしな出来事が頻発した。

 

自分が気に入らない人は何ヶ月も追いかけて徹底的に排斥するような恐ろしい偏執狂だ。

 

政木和三さんではないが、早くこの世からいなくなって欲しいものだと思う。

 

抜粋

 

テレビを見ていたA大阪大学の教授から、近畿化学工業界の雑誌に原稿を依頼され、それがもとで、学会の総会で講演することになった。

 その日、出席されていた大阪府大のB教授が

 『あなたは普通人ではありません、超能力がありますよ』

 と、このような専門家の集まりの中で言われた瞬間から、私の考え方が変化していくことになったのである。

 そういわれてみると、私にも不思議な体験がいくつかあった。

 中学生のころ、物理の試験で、出された問題が、私が休んだ日の授業のものだったので、全然わからないことがあった。

 しかたなく眼を閉じていると、頭の後の方で答えを言ってくれる者がいて、その通りに書いて提出したけれど、何を書いたかは少しも記憶に残っていないのである。

 しかし、後で、その得点が九〇点以上であることがわかった。

 また、後のことであるが、私が

 『あの人はいない方が、世の中のためにも、親戚の人のためにもよい』

 と思っていると、数ヵ月後に死んでしまうということがあり、そんなことが七回も続いて、そういうことは思ってはならないと考えた。

 けれども八人目の人についても、つい思ってしまい、その人も三ヵ月で死去してしまった

 それ以後は、このような思いをしないようにしている。

 しかし、死期を予言した人は、その通りに死んでいった。
 

 

つづき

 

一年前にも桜井章一の言を例に取り、生活における苦境、苦労からの解放について触れていた。

 

 

それをもうちょっとシンプルにしたものをここに再掲したい。

 

それは2600年前にブッダ釈迦牟尼を嚆矢とする仏教では「一切皆苦」と言っているが、そこからどうしたら脱せられるか明確な回答は与えられていないように思う。

 

おもしろいことに桜井章一はそこに明確な回答を与えている。

 

桜井はこういう。

 

 ●   どんな人でもスランプで調子をくずすことがあります。生きていれば都合の悪いことはいくらでも起こります。そんな時に、(こうした)「基本の動作」「基本の心構え」がしっかりしていれば救われるのです。

 

これ人生には苦がつきまとうということ。釈迦は「一切皆苦」というが。

 

では基本の動作、基本の心構えとはなんだろうか。彼はこういう。

 

まず、

 

●    「変化の流れを感じ、素早く柔軟に動くことが基本」です。すべてが変化していく限り、変化には間に合わなくてはいけません。間に合わないと文字通り間が抜けた人生になってしまいます。

 

これ「諸行無常」にどう対処するかということでしょ。

 

つぎに、

 

 ●   また、『「自分のことだけを考えない」ということも大事な基本』です。すなわち、相手のことも考え、さらに全体を思いやっていくという姿勢です。実はこの基本はみんな子供の時に教わっているものです。

 

これ自我が強すぎる我々の実態は「無我」であり、釈迦は「利他」や「慈悲」の大切さを説いてますよね。

 

桜井は、この麻雀で得た基本の動作や基本の心構えを生活のすべての局面においても忘れないようにしているそうだ。

 

生活のすべてで「基本」を大事にする。ここがミソだろう。「基本」を大事にして物事がスムーズに行ったり、気持ちよく感じたりする体験を積むことだ。

 

●   物事がスムーズにうまくいく時のやり方、自分が気持ちよく感じる行動、そうしたものはすべて(上述した)「基本の動作や心構え」から生まれます。

 

単純明快!

 

たった2頁の文章でここまで端的に人生訓を語れる人は少ない。そしてそれは仏教が2600年前に語ろうとした「苦からの解放」という問題に真正面から触れているとぼくは思う。

 

 

 

つづき

 

前回の話題。引越しの話ではない。笑

 

サクサクの砂浜を歩いて足首がマッサージされ、柔軟性をとり戻すようになると、今まであんなに履きづらかった粗悪品、タイ製のビーチサンダルが嘘のように履きやすくなる、という話をした。

 

硬いぼくの足首も、粗悪なタイ製ビーサンも、どっちもどっちだったということだ。

 

自分を貶すこともできれば、タイ(製ビーサン)を貶すこともできるだろう。

 

だいたい世の中の話はこんなものだ。立場が変われば対象に対する批判の仕方も変わるということ。

 

さて、

 

こんな水掛け論をしている暇はない。

 

問題はどうやったら「苦(況)」から解放されるだろうか?それを考えたい。

 

このビーサン話には、お前が柔軟性をとり戻せば、ちったー痛い状況から解放されるんだ。「苦(況)」に陥ったら、対象、相手の批判は一旦おいておいて、この「柔軟性」を取り戻す方法(キー)探そうよ、ということだろう。

 

こんなことを考えながら、ホステルのベランダから外をみていて、前の雑木林の中に幹の太い木があることに気づいた。

 

 

そこの場所から一歩も動かずに100年以上生きつづけているのだろうなと思わせる太さの木だ。

 

このホア浜のビーチ沿いの土地はこれまでにほとんどが買い占められて、リゾートホテルになっているが、奇跡的にこのホステルの前は空き地で、まだ古い木々が残っているのだ。

 

これまでいろいろ嫌なこともあっただろうに、よくやってきたよな〜と思った。もうまわりのお仲間だったであろう木々はとっくのとうに切り倒されてしまっている。(逃げ出せるものなら、ぼくだったらとっくに逃げ出しているだろう。)

 

ここに踏みとどまるには、それなりの「忍耐強さ」や環境の変化に耐えうる「柔軟性」が必要だろうに。

 

もしかしたらこの大木にとっては彼の置かれている今の状況はすでに「苦楽」というぼくあたりが考えそうなこの世を構成しているバウンダリーを超越してしまった存在なのかもしれない。

 

では彼はどのような「存在」なのだろうか?

 

 

 

 

つづき

 

それで、どうやったらそのような「苦(労)」から解放されるか考えてみることにした。

 

そのヒントが、先だって述べた、タイ製ビーチサンダルのあの体験にありそうだ。

 

 

インド製のビーチサンダル。履きはじめは硬めだが、そうこうするうちに履き慣れると10キロほどはそれを履いて歩けるようになる。良いできのサンダルだ。

 

ところがタイ製の同型同色のビーチサンダルは粗悪品でいつまでたっても履きづらい。数百メートル歩くと足がおかしくなってくる。それでそのサンダルを履くのを避けるようになる。

 

まさに今回のアパート探しに現れてくるような煮ても焼いても食えないアパート経営者・管理人にそっくりだ。

 

さて、

 

そのタイ製のビーチサンダルだが。何回も砂浜を素足で歩くうちに足首がマッサージされて柔軟になり、何と1キロぐらいの距離なら問題なく履いて歩けるようになった。

 

つまり煮ても焼いても食えないビーチサンダルがちょっとまともになるのである。サンダルの方が悔い改めて更生した訳でもないのに。笑

 

こちら(足首)の柔軟さが増したのだ。

 

「柔よく剛を制す」という言葉を思い出した。

 

この話はとりまカラダだけのケースである。

 

砂浜散歩→足首の柔軟性→粗悪なビーチサンダルにも柔軟に適応

 

しかし、この応用、発展形として、

 

〇〇〇〇→ココロの柔軟性→粗悪な人々(タイ人)にも柔軟に対応

 

ということが可能なのではないだろうか?

 

こんなことを考えた。

 

では〇〇〇〇に当たるものは何なのだろうか?

 

思いつきなので答えはありません。爆笑

 

これからじっくり考えたい。

 

タイトルは「タイで柔よく剛を制す」とでもしようかな。笑

 

 

かつてリーマンだったとき、特に病気ではないが、どうも調子が出ない、朝起きられない、意欲が湧かない、などの状態だった。

 

未病というやつだ。

 

だが、その理由は不明。深く考えもしなかった。

 

その当時は、24時間戦えますか、外食、コーヒー三昧がデフォだったことを思い出す。

 

崎谷博征先生のブログを読んで、これもぼくの未病の理由の一つではなかったかと推測する。

 

抜粋>

 

ヒトの血液内にもプラスチック粒子が発見されるのは、プラスチック粒子に汚染された水や食物(川や海洋生物だけでなく、地上の汚染された植物など)を日常的に摂取しているからです。

 

現代人は、炎症さえ起こらない免疫低下の状態に置かれている。

 

これが現代人に体調は良くないがかと言って病気とは認められない、「病気の症状がない」状態を作っています。

この状態は、マイクロプラスチックなどに含まれる毒性物質が体内に蓄積し続けているため、全身の糖のエネルギー代謝が日々低下している状態です。

 

免疫低下(抑制)の状態は、いわば生命がローギアでぎりぎり回っている冬眠状態に近いといえます(近年の若年者のターボ癌の原因でもある)。

 

したがって、疲れやすい、キレやすい、意欲が湧かないという状態が基本(スタンダート)になってくるのです。

 

これは決して、私たちが生まれつき身体が弱いせいではありません。

決して、現代人の「表立って症状がない」という状態が健康ではないことが理解できると思います。

 

<抜粋終わり

 

あれから20数年経って今は元気に暮らしている。このブログに紹介していることを自分でもやっているだけだが、今にいたるまで西洋医にかかったり、製薬にお世話になったことは一度もない。

 

それまで西洋医学にどっぷり浸かった日本社会というセッティングの中で、健康に関してはボタンのかけ違いが起こっていたと解釈している。

 

詳細 

 

 

 

まただ💦

 

月末から入居を希望していた物件がある。先日行ったら2000バーツ分のデポジット(手付金?)を20日までにはいれて欲しいと大家。

 

昨日、近くまできたので明日アパート(兼自宅)にいるようだったら午前中に支払いに行くけどとメイルをいれた。つまり18日にデポジットを入れると。

 

午後に一回メイル。なしのつぶて。

 

晩にもう一回メイル。なしのつぶて。

 

回答はなし。

 

悪い予感がちょっとしていたが、大家は10日前のこの直前になってバックれたのだ。たぶん、部屋にタイ人などから先約が入ったか、月末に部屋があかなくなったのだろう。

 

いやもっと事は複雑怪奇で、気分が悪いとか、どうでもいいやと思ったとか、そんな理由かもしれないのだ。

 

別のケースだが、朝市のおねえさんがある日いきなり機嫌が悪くなって食品を売ってくれなくなったというか、しかとされるようになったなんてある。今回もそんなケースに似ているようにも思う。

 

(先月初めの引越しのケースでは、アパートの部屋を予約して当日引越し荷物を持って行ったら、まだ空いてません、別の部屋を使ってください、というアパート管理人の申し出だった。ほんと唖然とする。人の生活をなんだと思っているのか!もっと前に知らせろよ!)

 

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追記(昨日つけ2024/03/18)

 

一日たって香港からだというこの大家のメイルが届いた。

 

そして、そこには25号室は別の人間が確保した。26号室なら空いているがどうだというメイルだった。

 

要するに、事情が変わって26号室をぼくに買わせたいのだ。

 

それを何だかんだあったりなかったりする理由をつけて先延ばしてきたようだ。

 

やはり、この大家は信用ならない。これはぼくへの一種の用心しろという警告なのだから、長い付き合いははじめから避けた方がこちらの身のためだろう。

 

こちらが誠意を見せればだんだん良くなるだろうという日本的アプローチをここタイでは考えない方がいい。

 

追記(2024/03/20付け)

 

また今度にしましょう、というメイルを大家に返したら、25号室はまだ空いているので連絡をこうという驚きのメイルが返ってきた。

 

もうワケワカメ。

 

やっぱりこの大家は禁治産者みたいな人なのだ。こんな人間が大家って恐ろしい国だタイは。

 

追記終わり

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ともかく、

 

日本的には無責任極まりない大家の対応だが、ここタイだ。日本とはさまざまな社会規範があまりにも違うのだ。日本の価値基準を振りかざしても仕方ない。相手は悪いとも何とも思っていないのだから。

 

日本だったら自分に落ち度があると思ったら謝るところだろうが、ここタイでは、被害者に対してマイペンライ(マイ=ない、ペンライ=痛み、不都合など)、気にするな、大したことない、と加害者側のタイ人がドヤ顔でいう。笑

 

タイ人と結婚したり、タイに長く住む在タイ邦人のブログにもそう書いてあるが、その通りだ。

 

来タイして10年近くもたって、引越ししなくちゃいけなくなって、タイ社会と実際にコンタクトすることで身をもってこのように、それを体験しているのだ。

 

こんな「ぬかるみ」のようなタイで生きるには、常にバックアッププラン、Bプラン、Cプランとたくさんの緊急避難プランをもっておく必要がある。

 

日本にいたら想像できないことだろう。

 

そして、ここホア浜では日本的には無責任極まりないと思われるアパートやホテル関係者がうじゃうじゃいそうだと「引越し」を通して身をもって知ることになった次第だ。気をつけよう。

 

痛いはなしだ。

 

バンコクでは引越しをしたことがなかったので、今回のここホア浜での出来事はかなりショックというか、これがザ・タイの正体なのだと思い知った。

 

ストーカー被害を防ぐために「引越し」とあいなったが、その「引越し」が二次被害を生んでいる形だ。ほんとふんだりけったり。爆笑

 

にほんブログ村に各国に住む邦人の現地ブログが載っている。ぼくと同様、みなさん各国の習慣や習俗の違いでいろいろ苦労されているようだ。

 

まあ、落日の日本だって程度の差はあれ似たようなもの。苦労はどこに行っても絶えない。

 

まさにお釈迦さまが2600年前に指摘したように生きる(生老病死)とは「苦(労)」そのものなのである。

 

では、どうやったらその「苦(労)」から私たちは解放されるだろうか?

 

それが問題だ。

 

おいおい考えていきたい。笑

 

 

 

 

 

この記事を書いた後いろいろあった。

 

もうちょっと正確に言うと偏執的な外国人バックパッカーがなんと隣の部屋に入って、それ以降2ヶ月間も昼夜、騒音をたてて仕事や睡眠の邪魔をされていた。

 

白人たちの横暴は目に余るものがある。タイ人アジア人軽視はなはだしい。

 

例えばこんな記事がよく出る。

 

タイ人女性が買い物中にたまたまスイス人にぶつかったことが始まり
 退職ビザでタイに住んでいるスイス人は女性を数回殴りその後現場から逃走を図る
 タイ人女性が報復として水筒を投げたところ、
 スイス人が戻ってきて首を絞め殴打、頭を床に叩きつけたという。

 

そんな訳でフロー云々を検討したり、議論する余地はその2ヶ月間ぜんぜんなかった。

 

今日、ひさびさに上記にリブログしたフローの記事を読み返していて、そのストーカー被害を受けて自分自身もものすごく変わってしまったように思う。

 

話は飛躍するが、今自分がロシアと戦争中のウクライナ人やイスラエル軍に根絶やしにされそうなパレスチナ人だったら、もっとすごい変貌をしているだろうと思う。

 

2ヶ月も拷問的に騒音にさらされているとPTSDになる。今はその自己治療中だ。

 

それで何が言いたいかと言うと、

 

人生思わぬ災難が降ってくることもある。へんな連中も多い。

 

それで、小さいことは気にするな(それをマイペンライとタイ人は言うが)もっと気楽に行こうぜ。そう思うようになった。

 

では、どんな風に気楽に行こうかと言うと、

 

次の政木和三さんの文章が参考になろうかと思う。(気楽と言ってもヘラヘラしていると言う訳ではない。笑)

 

 

抜粋開始

 

◎ 無限小の力で無限大の時間をかける

 

 

 

 一所懸命の大切さを私に教えるためであろうか。

 平成九年の三月末に、私の家のすぐ近くを通る道路のアスファルトを破り、イタドリの新芽が出てきた。

 イタドリは私にこう教えているかのようであった。

 『わたしたちのような柔らかい無限小の力のものでも、無限大の時間をかけて頑張れば、アスファルトのような硬くて厚い層をも破り、やがて地上に顔を出すこともできるのですよ』

 と。

 イタドリの新芽のように、無限小の力で無限大の時間をかけてじっくりと行動すれば、そのエネルギーもやがては無限大のものとなり、この世に不可能はなくなるということなのである。

 

抜粋終了

 

ソース

 

 

 

 

 

自分のやりたいことを淡々とやる。つまらない小細工はやめて普通通りにやる。やりたくなったらやる。やれるだけやる。でも無理はしない。

 

あの臨済禅師が言うように。

 

こんな言い方で通じるだろうか。

 

これがフロー議論のたどり着いた先だった。

 

まあストーカーによる騒音ハラスメントが続いて、何かが自分の中で吹っ切れたようなのだ。

 

そういう状態で、ストーカーから解放されこの1ヶ月過ごしている。

 

仕事も徐々に元の状態にもどしている。

 

でも以前の3時起きにはなっていない。4時か5時だ。まだそれほど乗り気ではない。

 

朝と昼過ぎに以前と同じ量ぐらいの仕事をこなして終わりだ。

 

ただ淡々とやっている。

 

こなせる仕事量や作業スピードみたいなものが気にならなくなった。

 

やりすぎると腱鞘炎にもなるし。笑

 

気が乗らなければやらない。乗ったらやる。その程度。

 

もう気張らなくなった。焦らなくなった。企まなくなった。

 

これがフロー談義のたどり着いた境地だ。

 

おわり

 

 

(ストーカー地獄から抜け出してたどり着いた新天地の風景)