つづき
前回の話題。引越しの話ではない。笑
サクサクの砂浜を歩いて足首がマッサージされ、柔軟性をとり戻すようになると、今まであんなに履きづらかった粗悪品、タイ製のビーチサンダルが嘘のように履きやすくなる、という話をした。
硬いぼくの足首も、粗悪なタイ製ビーサンも、どっちもどっちだったということだ。
自分を貶すこともできれば、タイ(製ビーサン)を貶すこともできるだろう。
だいたい世の中の話はこんなものだ。立場が変われば対象に対する批判の仕方も変わるということ。
さて、
こんな水掛け論をしている暇はない。
問題はどうやったら「苦(況)」から解放されるだろうか?それを考えたい。
このビーサン話には、お前が柔軟性をとり戻せば、ちったー痛い状況から解放されるんだ。「苦(況)」に陥ったら、対象、相手の批判は一旦おいておいて、この「柔軟性」を取り戻す方法(キー)探そうよ、ということだろう。
こんなことを考えながら、ホステルのベランダから外をみていて、前の雑木林の中に幹の太い木があることに気づいた。
そこの場所から一歩も動かずに100年以上生きつづけているのだろうなと思わせる太さの木だ。
このホア浜のビーチ沿いの土地はこれまでにほとんどが買い占められて、リゾートホテルになっているが、奇跡的にこのホステルの前は空き地で、まだ古い木々が残っているのだ。
これまでいろいろ嫌なこともあっただろうに、よくやってきたよな〜と思った。もうまわりのお仲間だったであろう木々はとっくのとうに切り倒されてしまっている。(逃げ出せるものなら、ぼくだったらとっくに逃げ出しているだろう。)
ここに踏みとどまるには、それなりの「忍耐強さ」や環境の変化に耐えうる「柔軟性」が必要だろうに。
もしかしたらこの大木にとっては彼の置かれている今の状況はすでに「苦楽」というぼくあたりが考えそうなこの世を構成しているバウンダリーを超越してしまった存在なのかもしれない。
では彼はどのような「存在」なのだろうか?