私は0からただの人。
凡人の私には分からない。
昔出来てたことが出来なくなった瞬間。
凄いことが凄くなくなる瞬間。
特別だったものが特別でなくなる瞬間。
どんなことを思うのだろうか。
陽の感情の模範解答はきっと“向上心”だ。
最後に笑える人間は常に上を向いて行かないといけない。
下を向いても、その反動でもっと上を向いているのだ。
そもそもそういう人は周りの人が騒ぐだけで本人が「私は神童です」とか「天才です」とか自称している訳では無い。
周りが認めているのだから、自称せずともそれは揺らがない事実だ。
でも一方で、周りが騒がなくなったらそれは「凡人」への第一歩。
結局若いから凄いのだ。
赤ちゃんが生まれてすぐ意思疎通して親と会話出来たらそれは神童なのだ。
でも歳を食えばそんなの当たり前になる。
歳をとる以上、神童だと言われ続けるのは不可能。
いつかは過去の栄光になる。
永遠に神童で居たいのなら、時を止めるしかない。
たとえそこで時が止まっても、ギャラリーは
「大きくなったらもっと凄い子になっていた」とか「いや、今が最盛期だ」とか
都合のいいように解釈して語るのだ。
もし本当に時が過ぎていた場合の真実が何であれ関係ない。
とはいえど、人間の意識は知らないうちに生まれているのに死ぬ時には自分に意思がある。
時を止めるなんてそんな簡単にできない。
本当に世知辛い。
はて、私は神童でも天才でもない。
ただの凡人のくせに。
生き急いでいる。
なにか、自分はなりたい理想があるのかもしれない。
でも何も分からないままとにかく焦っている。
分からない。
けど、何かが不安で、このまま歳をとったら絶対に後悔すると思っていて
考えても無駄かもしれないけど、考えたらわかる気がしている。
昔、死に急いでいた時があった。
その時は、ただ現状が嫌だった。
かといって将来も何も思いつかなかった。
虚無のまま歳だけ過ぎるのが嫌で死に急いでいた。
何もしないで歳をとるのが、いちばん怖かった。
最初は職場で「こんなことをあと数十年続けるのか」と思い、
次に「周りの人はこんなことしているのに」と妬んだ。
結果として通信だけど大学に行った。
そして今、それが終わろうとしている。
そしたら本当に、私はただ働いて毎日帰ってくるだけである。
社会人なら仕事以外の時間は遊んだって怒られない。
学生時代の夢のように、毎日友達と遊んだって自由なのだ。
でも今、それになんの意味があるのか分からなくなってしまった。
友達と遊んだって自分の現状は何も変わらない。
中身のない楽しいという感情は自分の成長に繋がらない。
娯楽であるはずのゲームも、息抜きで描いていた絵も、なんの生産性もない趣味に意味を見い出そうとしている。
そのいい例が、趣味の手芸で金を稼ごうとしている。
あぁもちろんそんな大掛かりな事が私に出来るわけが無い。
ちょっとしたフリーマーケットだ。
なんの生産性も無い絵を描き続ける意味を見つけたくて、色彩の参考書を読んでみたり
ゲームも漫画も娯楽は全部作者の気持ちになって、構成や専門知識を調べた。
だから何という訳でもない。
それを仕事にできるほど、
それを企業に買ってもらえるほど、
私は極めていない。
全てが中途半端だけど、それでいい。
とりあえず何か自分のために学ぶことで「生き急ぐ」というミッションをクリアしている。
でも結局、自分にとって中途半端なままで、
何の「タメ」にもなっていない。
本当に無意味なのにそれで自分は満足している。
JKブランドとはよく言ったものだ。
学生なんていくら頑張っても全体の人生のたった4分の1に過ぎないのに、その数年は無敵なのだ。
学生なのだから。
学生が終わったらとりあえず残りの人生を消化するために生き、
生きるために働くのか。
仕事をしているのだからその時間は無駄ではないと言い切れるのだろうか。
私は思わない、仕事は生きるための術であるから。
ただ毎日決まった時間に起きて決まった時間にやるべき事をやるだけなのにそれに意味があるのだろうか。
自分でも自分の考えている事が分からない。
自分のやりたいことが分からない。
そんなこと他人に愚痴ったところで、自分が分からない事が分かるわけがない。
もうなんでもいい。
なんでもいいから誰かにすごいって言われたい。