この数年間、地味にブログを書き続けてきたのは、たぶん、言葉を失うことへの漠然としたおそれがあったからだろう。食べものを買いに出かけるだけの生活で、もしテレビをつけなかったら人の顔も見ないし声さえ聞くことはない静かな毎日。一日じっとして言葉を使わなくなると、まずは日常の時間の感覚がなくなってくる。日付が分からなくなってくると、きのう何を食べたのかも分からなくなる。物事の前後関係が分からなくなると、場所の感覚がなくなってくる。心の居場所がなくなると睡眠が断続的になって、夢の続きを見るようになる。目が覚めたら自分が誰なのか分からなくなる恐怖。言葉は、私が私である事の保証人でもある。

おそらく言葉には二つの段階があって、たとえばウィルスの逆転写酵素が他のDNA配列を取り込んで模倣するような段階は、共時的記憶ともいえる。写真のようにデータをスキャンすれば、その情報は仮死状態で圧縮されて保存できる。いわば情報の種子化。この種子に水をかけて解凍すると、殻の中で眠っていた情報が蘇える。もちろん生物としての私は先天的にウィルスと同じ構造を持っている。このような共時的記憶とよく似た機能が言葉にもあって、一定の構造の中に情報タグをつけて位置情報と前後関係を時間軸上に配列してくれているので、情報は共有され時を越えて受け継がれる。

共時的記憶を情報処理とみなすと、それに比して、もう一つの段階の通時的記憶は情報の伝播に当たるだろう。日常会話から文学、科学、宗教などで使われている言葉のイメージはこちらになるだろう(音楽も共時的構造と通時的構造をもっている)。千日回峰行では人里離れた山深い森に独り籠もるみたいだけど、私の場合、二年でもう限界。自分ではよく分からないけど、体力的にもたないようだ。千日修行ではとにかく山道を駆け巡るらしいので、気力体力ともに充実して臨んでいるようだ。私は結果的に籠っているのにすぎないから、もちろん何の準備もない。これを勘案すると、もう十分だろう。そういうことにしておこう(笑)