以下、①のつづきです…


2014年7月5日発行

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JMM [Japan Mail Media]                 No.800 Saturday Edition
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                         http://ryumurakami.com/jmm/
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 ■ 『from 911/USAレポート』               第669回
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 これが「2つの特殊性」の1つ目ですが、これに対して「2番目の特殊性」という
のは何かというと、これは「一国平和主義」とでも命名すべき特殊性です。

 例えば今回の集団的自衛権論議に際して、「日本が関係のない戦争に巻き込まれ
る」という懸念が多く語られました。ですが、「巻き込まれる」という受身形の認識
は誤りであると思います。一つには「第1の特殊性」の側、つまり「親米保守」の政
権は、「日本とは関係のない」ところで犠牲を払って、東アジアの軍事バランスに米
国がコストを負担してくれることとの「バーター」にしたい、そのためには、「日本
と関係のない戦争に巻き込まれたい」と思っているからです。

 ですから、この問題は国内問題であり、堂々と「親米保守」の危険性を批判すれば
良いのですが、それを「巻き込まれるのは怖い」などとトンチンカンな恐怖心を表明
しているということが、まず「大変に特殊」です。

 また、「日本が戦争に巻き込まれるとテロの標的にされる」という批判もありまし
たが、これも極めて視野狭窄であると思います。日本は資源のない中、エネルギー政
策の迷走により極端なまでに化石エネルギーに依存した状況にあります。ですから、
中東で大規模な紛争が起きること自体が国益には反します。また、産油国の一部と敵
対することも回避しなくてはなりません。

 更には、日本はユダヤ教の国でも、キリスト教の国でもないわけで、カルチャー的
にはイスラム圏と敵対する理由はありません。また、労働人口激減という問題を考え
ると、インドネシア、マレーシア、パキスタン、バングラディッシュといった東南ア
ジア、南アジアの諸国との関係は良好に保っていかねばならない宿命にあるわけで
す。そんな中、まるで日本がどんどん中東で軍事活動をして、イスラム原理主義の憎
悪のターゲットになるというような話は、極めて非現実的です。

 つまり、この「一国平和主義」というのは、純粋な感情論であり、それが大きな影
響力を持つことで、かえって「第1の特殊性」つまり、枢軸国の名誉回復を企図しな
がら軍事的な活動を拡大しようとする立場を「追い込み、居直らせて」しまっている
という構図があると思います。

 こうした2つの特殊性、つまり戦後秩序に挑戦するかのように「枢軸国の名誉」を
追求し、そのために東アジアで孤立する危険性を米軍のプレゼンスで守ってもらい、
その米軍との貸し借りの清算のために「関係のない戦闘に巻き込まれたい」と考え
る、「親米保守」という危険な「特殊性」があり、これに対しては「あらゆる軍事的
なものには嫌悪感を持ち、外からやって来る危険へは恐怖心で反応する」という「一
国平和主義」という「特殊性」が拮抗しているわけです。

 そのバランスの中に、日本の現在の「国のかたち」があるとしたら、それは国際社
会の中では極めて特殊な国であると思います。現在の日本は、普通の国に向かってい
るのではなく、より特殊性を強めている、そう考えるべきだと思うのです。

 一つ大きな問題があるとしたら、経済合理性という原則を持っているはずの経済界
が、沈黙したままであるということです。依然として世界から資源を調達し、世界に
販路を見出す構造を日本経済は持っているわけで、政治的・軍事的に日本が孤立する
ことは経済界には決定的なダメージになるはずです。

 にも関わらず経済界が、こうした問題に沈黙を守っているのは、政権与党の創りだ
す「官需」との構造的な癒着構造があるからだと思います。これは、途上国型独裁の
構造そのものです。もっとも、日本の場合は人口も経済も縮小の危機に直面している
わけで、途上国型というよりも縮小途上型経済ということになると思いますが、生存
への恐怖の中で「官需」にしがみつく構図としては、左右対称形であると言えるでし
ょう。

 本来でしたら、経済界が改めてグローバルな世界へ向かって出て行くことで、日本
が国際的に孤立しない方向性が国家的な合意となり、またそうした経済活動に成果が
出ることで、社会的な不安感も払拭される、その中で「枢軸の名誉にしがみつく」と
か「外から来る危険に対して身をひそめる」といった不合理な感情論が消えていくこ
とが望ましいのだと思います。日本が「普通」になるとしたら、その方向性ではない
でしょうか?
 
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冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)
作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空
気」「場の空気」』『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』『チェンジはどこへ
消えたか~オーラをなくしたオバマの試練』。訳書に『チャター』がある。 最新作
は『場違いな人~「空気」と「目線」に悩まないコミュニケーション』(大和書房)。
またNHKBS『クールジャパン』の準レギュラーを務める。

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●編集部より 引用する場合は出典の明記をお願いします。


以下、先週のメルマガより引用?転載?します。関心のある方は、ご一読ください


2014年7月5日発行
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JMM [Japan Mail Media]                 No.800 Saturday Edition
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▼INDEX▼
  
  ■ 『from 911/USAレポート』第669回

    「日本は「普通の国」になれるのか?」

  ■ 冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)

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 集団的自衛権が合憲であるという内閣の憲法解釈変更をめぐっては、アメリカのメ

ディアでも取り上げられています。例えばニューヨーク・タイムスなどは、日本が
「普通の国」になろうとしているという表現を使いつつ、この動きへの警戒感を表明
しています。

 今回は、日本は果たして、この「普通の国」になれるのか、という問題を議論して
みようと思うのですが、その前に、そもそも「普通の国」というのはあるのでしょう
か?

 丁度、昨日7月4日(ジュライ・フォース)はアメリカの独立記念日でした。例え
ば、このアメリカの場合は、英国の植民地であったものが、本国の徴税権に反旗を翻
す中で、独立へ向けた戦争を戦うという「異常な経緯」によって生まれた国であるわ
けです。また、その歴史にしても分裂あり、孤立主義あり、また二回の世界大戦で、
特に終わり方に関して主要な役割を演じたり、冷戦の一方の当事者、そして世界の警
察官や反テロ戦争の当事者など、異常なことだらけであり、とても普通の国とは言え
ません。

 英国にしても、第一次産業革命で先行したことから、強大な海軍力を背景に世界に
またがる帝国を構築したものの、以降の技術革新には敗北して、帝国としては縮小の
一途を辿った奇妙な国ですし、フランスなどは、共和制と帝政、保守政体とリベラル
な政体などに揺れ動く大変にユニークな国であると言えます。

 安保理常任理事国の残りの2カ国に至っては、ロシアは途上国型半独裁、中国は共
産主義をタテマエとした史上空前の規模の途上国型独裁という、これまた異常な政体
であるわけです。

 そう考えると、世界の国々というのは、どれも大変に「クセのある歴史」を持って
おり、その「国体=国のかたち」にしても、どれ一つとして「普通の国」などという
ものはないと考えられます。

 では、そもそも「目指すべき普通の国」などという概念は実在しないにも関わら
ず、日本の場合はどうして「普通の国になりたい」という議論が存在するのでしょう
か?

 それは、日本が「特殊な国」であるからだと思います。

 日本の特殊性というのは、際立ったものがあります。世界の「私的な警察官」であ
るアメリカ、巨大な規模の経済を途上国型の独裁で回そうとしている中国の特殊性が
「規模や量」の特殊性であるとしたら、日本は「質の特殊性」であるのですが、「特
殊」ということでは、そのアメリカや中国に匹敵するほどに「真ん中から外れて」い
るし、また国際紛争の火種になる危険性も帯びているように思います。

 日本の特殊性というのは、世界に類例を見ない「2つの特殊性」が拮抗していると
いう構造にあります。

 1つは、「枢軸国という国のかたち」を継承している、もしくは継承したいという
政治的求心力があり、その政治的求心力が現在の政権を成立させているという特殊性
です。そのような国家は、世界に全く例を見ません。

 そう申し上げると、「いやいや、東京裁判史観に反対するのも、南京入城時の一件
も、慰安婦問題も、心情的に納得がいかないから反発しているだけであり、戦後世界
全体に反旗を翻すほどの大胆な意図はない」という弁解が来るのかもしれません。
「せめて、国に殉じた人々の純粋性に自己を投影して、その名誉回復を企図するぐら
いのことは許して欲しい。別に誰に迷惑をかけるわけでもない」そんなところかもし
れません。

 ですが、世界からはそうは見えないのです。それは、日本という国は「枢軸国の国
体を護持してしまった」という特殊な歴史的経緯のある国だからです。

 第二次世界大戦というのは、日独伊三国同盟が軸となっていました。その中で、ド
イツの場合は、第三帝国は降伏した後に4つ、いやベルリンの分割統治を計算に入れ
ると8つに分断され、完全に消滅をしたのです。その後、こうした分裂状態は、東西
ドイツ、東西ベルリンという「4分割」に収束して行きましたが、その「4分割」と
いうのは35年近い期間続いて、その後、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東を吸収
合併する形で再統一がされました。

 ですが、長い分裂の期間を経てもまだ「国際社会からの警戒感」は残っていまし
た。そのために、ドイツ再統一というのは巨大な犠牲、つまり自国通貨マルクの放棄
とユーロへの統合、プロイセン建国の故地を含むオーデル・ナイセ以東の旧領地の永
久的放棄という代償を払ったのです。

 つまり、第三帝国という「国のかたち」の残像を、長い分断期間の苦しみ、自国通
貨の放棄とEUとの運命共同体形成、そして一方的な譲歩による完全な国境線確定と
いう「3つのマイナス条件の甘受」を経て、完全に消すことが出来たのです。現在に
至って、ドイツが「旧枢軸国」として自他から認知される可能性はなくなったのです
が、その背景にはこれだけのことがあったのです。

 三国同盟の一角であったイタリアに至っては、第二大戦末期の1943年に国王を
中心としたグループが、独裁者ムッソリーニを打倒して連合国に降伏し、以降は対
独、対日宣戦を行うことで、事実上の連合国側として大戦末期を戦ったわけです。イ
タリアでは、現在もムッソリーニやファシスト党に肯定的なグループが残っています
が、それでも国際社会として、現在のイタリアの「国のかたち」に「枢軸国の残影」
が指摘されることはありません。イタリア自らが枢軸国から連合国側に転じた事実の
ためです。

 このドイツとイタリアと比較すると、日本の事情は大きく異なります。まず、イタ
リアが対独宣戦して枢軸から離脱、更に1945年の5月にドイツが降伏して欧州戦
線が集結した後も、単独で連合国との戦いを続けていたという事実があります。

 また戦争の集結に当っては、組織として解体されたのは軍だけであり、終身雇用の
官僚制は温存されましたし、天皇の退位ということも、改元もしくは西暦の採用(そ
のぐらいやっても良かったと思うのですが)もされませんでした。

 国際法的には一旦は国家の独立は喪失されて、アメリカの軍政下に置かれたのです
が、事実上は間接統治として日本社会自体は国内的には日本政府が存在し、日本の法
規が機能するという形を取り、日本人自身には「国を失った」という感覚は希薄でし
た。占領軍がいつのまにか駐留軍になり、敗戦が終戦と言い換えられたのは、その辺
りの「国のかたち」の存続を示すエピソードだとも言えます。

 憲法という問題に関しても、米国の軍政下に置かれることで「独立国としての憲
法」は効力を喪失していたにも関わらず、日本の内閣・国会と官僚制を使った間接統
治が実務的には回る中で、被占領国の日本の内部の最高法規として依然として機能し
ていましたし、憲法の改正も旧憲法の手続きによって国内的な権威付けがされていま
す。

 では、どうしてアメリカは軍政においてそのような間接支配を行い、また、天皇や
憲法、官僚制などを温存するような「甘い改革」に終始したのでしょうか? そこに
は、1つの問題がありました。まずは本土決戦的な形での流血は回避したかったとい
う問題があります。それは米兵の犠牲を抑えたいという事情だけでなく、日本国内が
大きく混乱すると、経済的に貧しい中で旧軍への反発も大きかった日本の世論は社会
主義陣営への親近感を強くするという危険を感じたからでした。

 そこで米軍は、便宜的な判断として改革を微温的なものとして、旧枢軸的な匂いの
する統治機構の一部は温存するという判断に至ったのだと思います。

 ここまでは、歴史的な経緯ですが、簡単に言えば「冷戦が深刻化する時代状況にあ
って、西側の自由陣営に日本を留めておくために、旧枢軸的な国体の徹底的な解体を
しなかった」ということです。

 このことは、日本に取っては危険な状況でした。一歩間違えば、戦後の国際社会に
おいて「唯一残存した枢軸国」であるとして、孤立する危険があったからです。です
が、その危険は現実のものとはなりませんでした。

 それは戦後の日本が「枢軸的なものを全面解体されなかった」という日本の「特殊
性」をよく認識しており、これをある意味では弱点だという認識を密かに持つこと
で、「全方位外交、平和主義」を徹底してきたからです。

 ですが、現在の「積極的平和主義」という名の下の「普通の国になりたい」という
政治的衝動は、この前提を無視しているわけです。それどころか、もっと積極的に、
「枢軸国日本の名誉」があたかも「現在の日本人の名誉」であるかのような心情を流
布させる中で、戦後の日本が細心の注意を払って回避してきた「日本は枢軸国であ
る」という名指しによる孤立の危険性を、増大させているわけです。

 これは大変に異常なことであり、こうした姿勢が続く限り日本は「特殊性」を増す
ばかりであって、その先には孤立の危険が待っているように思います。

 歴代の「保守政権」はこの点の危機意識は持っていたと思います。ですが、現在の
自民党政権の政治的求心力の中には「枢軸国の名誉回復」というストーリーが深く埋
め込まれてしまっていて、もう清算はできなくなっています。そこで、アメリカに対
して、例えば日本には直接関係のない中東での軍事行動に参加して犠牲を出すこと
で、「バーター取引として」東アジアの軍事バランスの一角を担ってもらうというこ
とを志向しているように思います。

 つまり、中国との摩擦において日本が前面に出る、あるいは単独で当たるようなこ
とになれば、中国サイドは「枢軸国が来た」ということで、士気も高まるでしょう
し、国際世論を味方につけることも容易になります。これを避けるために、米軍の存
在は日本の安全保障には欠かせないというわけです。

 これが「2つの特殊性」の1つ目ですが、これに対して「2番目の特殊性」という
のは何かというと、これは「一国平和主義」とでも命名すべき特殊性です。

(つづく)


『イスラーム文化~その根柢にあるもの』井筒俊彦著(ワイド版岩波文庫、1994年刊)


第3章 内面への道

(中略)


自我の意識、我の意識の払拭とは、単に我を忘れるというような消極的なことではなくて、自分の内に自分ならぬものを見出そうとする積極的な努力です。自分とか我とかいうものを深く深く掘り下げていく。その終点において、我の内面に、我でなく、溌剌と創造的に働く生けるハキーカ(内的真理、内的実在性)つまり神を見出し、神に会うということでありまして、これがスーフィズム(イスラーム神秘主義)のいわゆる「内面への道」の第一段階なのであります。

ですから、ここでは神はオーソドックスの共同体的イスラームの説く超越的、絶対的超越者、近づき難い高みにあって、上から、つまり外側から人間を支配する超越神ではなくて、むしろ一切処に偏在し、あらゆるものの内面にあり、人間の魂の奥底に潜んでいる内在神なのであります。そういえば『コーラン』には至るところ、神の超越性が強調されておりますけれども、その反面、神の内在性を説く章句もまた少なからず見出されます。例えば、

 「東も西も神のもの。汝らいずこの方に顔を向けようとも、必ずそこには神の顔がある。まことに神は一切処に偏在し給う。」(2章、109節)

とか、また

 「われら(神)は人々各自の頸の血管よりもその人に近い。」(50章、109節)

とか。この意味ではスーフィズムとは人間の実存の奥底に潜む内在神と、人間自身との極度に親密な秘密の関わりを人間が自覚することであると理解しておいて大過なかろうと思います。

われわれの実存の中核には自我意識がある。「我」、わたし、というものが先ずあって、その周りに光の輪のように世界が広がる。自我意識は人間存在の、人間実存の中心であると同時に、世界現出の中心点でもあります。しかし、それは同時にすべての人間的苦しみと悪の根源でもあるのです。人間に我があるから苦しみがあり、悪がある。ふつう世間で悪と呼び、苦悩と呼ばれているもの、また、シャーリア(共同体の社会的秩序を守るための規範であるイスラーム法)で罪と考えられているものは、ことごとく我に淵源する。だが、それだけではありません。スーフィー(イスラーム神秘主義者)の見地からすれば、自我意識、我の意識こそ、神に対する人間の最大の悪であり、罪であるのです。

アブー・サイード(1049年に世を去ったイランの偉大なスーフィー)は、悪とは何か、そして最大の悪とは何かと質問されたときに、次のように答えたと伝えられております。「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、汝が汝であることが悪であるのに、それを汝が知らないでいる状態のことだ」と。そしてまた、「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」とも。汝が汝であること、これをペルシャ誤(イラン語)で「トゥウィー・エ・トゥ」と申します。有名な表現です。そのまま訳しますと、原文の語順を逆さにして、トゥ=「汝」、エ=「の」トゥウィー=「汝性」、ということ。つまり人間の我、自我の意識ということです。

では、なぜ「汝の汝性(トゥウィー・エ・トゥ)」が悪であり、災いであり、罪ですらあるのか。この問いは、御承知のように、仏教などでも非常に大きな働きをする意義重大な問いですが、それに対する答えは、仏教とイスラームではだいぶ違ってきます。元来イスラームは人格的一神教でありまして、スーフィズムもイスラーム的神秘主義である限りは、やはり人格的一神教ということをそのイスラーム性の最後の一線としてあくまで守りぬこうとするからであります。

人格的一神教の神秘主義、スーフィズムの、この問いにたいする答えは、おおよそ次のとおりです。私が我の意識を持つ限り、我と神が対立する、それが悪なのだ。私が神に第二人称で汝と呼びかけるにせよ、あるいは神を第三人称で彼と呼ぶにせよ、ともかく存在は二つの極に分裂し、意識もまた二つに割れてしまうからだ、と。実を申しますと、我と神との分裂、対立こそ共同体的宗教としてのイスラームはもとより、ふつう一般に宗教と呼ばれるものにおけるいちばんノーマルな状態でありまして、信者が神をはるか向こうに望みながらこれに祈りかけ、これを拝む、それが宗教なのですけれど、スーフィズムに言わせれば、これでは神と信者が対立してしまう。つまり神のほかに、それに対立して何か別のものがあるということになってしまう。これでは二元論です。

「我こそ真実在」つまり「我は神」という恐るべき宣言をして瀆神の罪を問われ、西暦922年、バクダードの刑場で悲劇的な死を遂げた超一級のスーフィー、ハッラージが、その詩の一節でこう歌っております。

 ああ、我といい、汝といい。
 だがこういえば、神が二つになるものを。
  …
 ああ、できることなら「2」という数字を
 口にしないでおりたいものを。

と。人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければならない。あるいは、神を彼と見なければならない。どこまでも人間的我と、神的汝、または人間的我と神的彼の関係であって、神だけではない。神だけでなければ二元論です。一神教ではありません。真に実在するものは、ただ神だけ、全存在界ただ神一色でなければならない。それでこそ純粋な一元論であり、本当の一神教だというのです。

この点についてアブー・サイードがこういいます。「もし汝が存在し、彼が存在するならば(つまり人間が存在し神が存在するならば)、二人が存在する、これでは二元論だ。だから何が何でも汝の汝性を払拭し去らねばならないのだ」と。こういう意味で、スーフィーはその修行道において、まず何をおいても自己否定、つまり自意識の払拭に全力を尽すのであります。

しかしながら、スーフィーが自己否定の道をどこまでも進んでいくうちに、思いもかけなかった不思議な事態が起こってまいります。自己否定がまったく新しい積極的な意味をもちはじめ、一種の自己肯定に変わってくるのです。否定に否定を重ねて自我意識を消しながら、我をその内面に向かって深く掘り下げていくと、ついに自己否定の道の極限において、人は己の無の底に突き当たる。ここに至って、人間の主体性の意識は余すところなく消滅し、我が無に帰してしまいます。自我の完全な無化、我が虚無と化すということです。

ところが、この人間的主体性の無の底に、スーフィーは突如として凛然と輝き出す神の顔を見る。つまり人間の側における自我意識の虚無性が、そのまま間髪を入れず、神の実在性の顕現に転生するのであります。

この異常な実存的体験をさきほど名を挙げました神秘家ハッラージが、その詩の一節で「わが虚無性のただ中にこそ永遠に汝の実在性がある」という言葉で描いております。そしてその同じことを、15世紀のイランのスーフィー詩人、哲学者ジャーミーは散文で、「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現が、人間の内部空間を占拠し尽くして、その人の内にもはや神以外の何ものもの意識もまったく残さないことだ」いっております。これらの言葉によってわかりますように、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、つまり無我の境地とは、意識が空虚になりうつろになってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということなのであります。

ここで「神的実在」と申しますのは、私がもう何べんも口にしてまいりました「ハキーカ」、存在の絶対的、形而上的根源のことでありまして、イスラームの神秘家にあっては、このような境位でのハキーカの圧倒的な力がしばしば一種の光、この世のものならぬ霊光による意識の照明として体験されます。こういう形而上的光明体験を、神秘主義の術語で「照明体験」、アラビア語ではイシュラークと申します。

ついでながら、このイシュラークというアラビア語は、もともとさしそめる黎明の光を表す言葉。東の地平線に太陽がヌッと昇って、そこから発出する光のなかで、突然、全世界が燦爛と現出することを意味します。

但しスーフィーはこの光の体験、つまりハーキカの霊光で存在の深層が全面的に現象的次元に露出してくる体験を、そのまま世界現出として受けとるよりもむしろ、それを自我の神化、つまり人間が現身のまま神になること、人間的我が神的我に変質することとして受けとめます。そのような形で現出してくる存在世界を見る目は、もはや人間の目ではなくて神の目である、と信じるからです。

西暦9世紀の最大のスーフィーの一人であったバーヤジード・バスターミーという人の言葉に、「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分の自分という皮を脱ぎ捨てた。そして私は、私自身のなかを覗き込んで見た。どうだろう、私は彼だったのだ」とあります。私は彼だった。つまり自我性を完全に脱却した私は、もう私ではなくて、神そのものだった、というのです。さきほどお話しいたしましたハッラージの「我こそは神(アナ・ル・ハック)」という世に有名な言葉は、これとまったく同じ体験を、もっと簡潔に、もっと圧縮された形で表現したものであります。

しかしながら、このようなスーフィーの言葉が、共同体的、シャリーア的イスラームを代表するウラマーたちの耳に、この上もない神の冒瀆と響いたことは申すまでもありません。これがヒンドゥー教などのように「解説」体験を中心とする宗教ですと、「アナ・ル・ハック(自己がそのままの絶対者)」の自覚はむしろ最高究極の境地の自己表白であって、そこに至ることこそ修行の目標であるわけですが、こういう言葉がイスラームの一神教的コンテクストで吐かれると大変危険なことになるのであります。

こうしてイスラームにおける「内面への道」はスーフィズムとともについに行き着くところまで行き着いたという感があります。これでもなお、「内面への道」はイスラームなのでありましょうか。この問いに対してスーフィーは、「そうだ、これこそ本当の純粋なイスラームなのだ」と答えます。しかし、これが純粋なイスラームであるにしても、これほどまでに純化されたイスラームは、もうイスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまできているのであります。あるいはイスラームの歴史的形態の否定そのものだといった方が真実に近いかもしれません。

シーア派第一代のイマーム・アリーの言葉を私は憶います。「ロウソクを吹き消すがいい。もう夜が明けたのだ」と。太陽、光の源泉そのもの、つまり神が直接現れてしまった以上、もうロウソクの火(認識主体としての自我)に何の用があろうというのです。大胆な、しかし、いかにも清々しいこの言葉をスーフィーは好んで引用いたします。全世界が太陽の光に満ちているとき、貧相なロウソクなど点しておいても意味がないと言い切ってしまうスーフィズム、つまり神を見た人、神になった人には、もう宗教は用がないのだと言い切ってしまうスーフィズムは、イスラームの内部にあって歴史的に危険分子として今日まで存続してまいりました。しかし、つねに危険視され、迫害されつつも、スーフィズムがイスラームに精神的深みと奥行きを与えることによって、イスラーム文化の形成に重大な寄与をなしてきたことは、疑いの余地のないところであります。

けれども、本当は、問題はスーフィズムだけに関わることではありません。以上、私がお話しいたしましたイスラーム文化の三つの代表者、すなわち、第一にシャーリア、宗教法に全面的に依拠するスンニー派の共同体的イスラーム、第二に、イマームによって解釈され、イマームによって体現された形でのハキーカに基づくシーア的イスラーム、そして第三に、ハキーカそのものから発出する光の照射のうちに成立するスーフィズム、この三つのうちどれが一体、真のイスラーム、真のイスラーム的一神教なのか。それぞれが自分こそ真のイスラーム的一神教を代表するものだと主張して、一歩も譲りません。イスラーム文化の歴史は、ある意味ではこれら三つの潮流の闘争の歴史なのであります。しかし、外から客観的に事態を観察することのできる立場にいるわれわれとしては、それらのなかのどの一つがというのではなしに、つまりこのような相対立する三つのエネルギーのあいだに醸し出される内的緊張を含んだダイナミックな文化、それがイスラーム文化なのだ、というふうに考えていくべきではなかろうかと思います。



(211頁~225頁より抜粋)


『イスラーム文化~その根柢にあるもの』井筒俊彦著(ワイド版岩波文庫、1994年刊)


第1章 宗教

(中略)

最後にもう一つ、イスラームの神アッラーの顕著な特徴としてぜひあげておきたいのは、この神のもつ絶大な力、全能性ということであります。神を主人(ラップ)とし、人間を奴隷(アブド)とする、神と人間との関係についてのイスラームの根本的な考え方自体に、すでにはっきりと現れていることですが、神は絶対有力、人間は絶対無力。つまり、通常の宗教的表現を使って言いますと、アッラーは全能であるということです。神は全能、すべてはその意のまま。神の全能ということは『コーラン』の始めから終わりまで、全体を通じて流れている最も根本的なテーマでありまして、例を挙げるのにかえって困ります。いわばコーラン全篇がことごとくその例なのですから。

この神は、ユダヤ教の神、キリスト教の神と同じく、一切万有の創造主、あらゆるものを無から創造した創造の神。ただ「在れ!」というその一言で、どんなものでもたちどころに存在し、無が有に一変する。神は世界をただ一ぺん創造したきりで、あとは事の成り行きに任せるというのではなしに、それ以来ずっと、いまでもなお、時々刻々に全世界を厳格に管理し、支配している主宰者であります。つまり一切存在者の絶対管理者として神は世界の歴史の流れに時々刻々に介入してくる、というより、神のこの存在界への介入が歴史なのであります。そしてそれが神の世界経綸です。

この世のすべてのものは神の意志のとおりにあり、すべてのことが神の意志のとおりに動く。しかも瞬間瞬間ごとにであります。ということは、世界は無垢なる過去に一回だけ創られてそれで創造は終わるのではなく、どこまでも瞬間ごとに世界が新しく創造されていくということでありまして、神のこの瞬間的創造行為の連鎖が、世界、そして人間の歴史を形成するのであります。瞬間ごとにまったく新しく創造されるのですから、全体が切れ目のない一つの流れではありません。とぎれとぎれの独立した単位の連鎖であります。いまこの瞬間の状態を、一瞬前の状態とくらべてみますと、そのあいだには絶対的な断絶がある。いまこの瞬間を一瞬後の状態と比較しましても、そのあいだには何ら内的連関がありません。まさに仏教哲学でいう「前後裁断」であります。前と後ろがとぎれているのです。

歴史はつぎつぎに起こる出来事のとぎれとぎれの連鎖であるという、このアラブ独特の歴史観、この歴史観を打ち破って、歴史を一つの因果律的に連続する流れのリズムとしてとらえたのが、ずっと後世、14世紀、独創的歴史家として世に名高いイブン・ハルドゥーンという人であります。イスラームの生んだ最も独創的な思想家の一人であります。非常に独創的な思想家ではありますが、イブン・ハルドゥーンは、決して典型的なアラブの思想家ではありません。アラブの典型的な見方からいいますと、イブン・ハルドゥーン的なものの見方は、たいていの場合、むしろ例外的であります。いま私どもが問題にしていることにつきましても、本来のアラブ的歴史観では時間はあくまで非連続であって、連続ではないのであります。

哲学的にはこのようなものの見方を一般的に非連続的存在観と呼ぶことが出来ると思います。存在の根源的非連続性。もちろん時間的にばかりでなく、空間的にもです。空間的に世界は互いに内的に連絡のないバラバラの単位、つまりアトムの一大集合として表象されます。これがふつうイスラームのアトミズム=原始論的存在論と呼ばれている有名なものですが、とにかくこのように世界にあるいっさいの事物が時間的にも、空間的にも、個々別々であって、しかもそれら個々別々の事物の一つ一つが、それ自体多数の不可分割的な微粒子、つまりアトムの組み合わせから成り立っている。それらの微粒子は、お互いに融合し合うことが絶対にない。微粒子相互のあいだにも、それらの微粒子の集合で出来上がっている事物相互のあいだにも、何ら内的連関がないのです。ただ偶然に並んでそこにあるだけなのです。

そうなりますと結局、われわれの経験的世界は、哲学的には因果律の成立しない世界ということになる。因果関係で内的に結ばれているものは、この世界には何一つ存在しない。また、そうであればこそ神の全能性が絶対的な形で成立しうると考えるのであります。

もともと因果律というもの——原因があって、結果がある。原因になるものにある種の創造の力があって、自分に内在するその力の働きで結果にあたるものを自分の中から生み出していくのでありまして、因果律というものを認めますと、それだけ神の創造能力が減ることになる。神に頼らなくても、事物がそれぞれ自分なりに働けることになるからです。とにかく事物に自分自身の力があって、それが独立で働くものであれば、神は無条件的に全能ではありませんし、世界は神の絶対自由空間ではなくなってしまうのです。それ自体はまったく無力。自分自身の存在に関してすらまったく無力な事物に対してこそ、神の意志が自由自在に働きかけることができる、そう考えるのであります。

いまここでは、一般的理論として「事物」とか「もの」とか申しましたが、それが特に「人間」である場合、問題は非常に大きくなってまいります。行動に置いても存在に置いても人間はまったくの無力。自分に力では何一つすることができない。そういう絶対無力の人間にしてはじめて絶対有力の神にたいして真に意味で、無条件的に「奴隷」であることができる。これがアトミズムの典型的な人間観であります。純宗教的には他力信仰の極限的状態として、これで結構かもしれませんが、それでは人間の自由意志が完全に否定されてしまう。これは重大な倫理問題です。人間の倫理性だけではなくて、神の倫理性まで危うくなりかねない。

なぜなら、もし人間がまったくの無力で、自由意志を欠くものであるなら、そんな人間が悪を為し罪を犯すのも彼の責任ではなく、すべては神の責任になってしまうはずだからであります。自分では全然悪を為す能力がない人間に強制的に悪をさせておいて、しかもこれを罰するというのでは、いくら何でもひどすぎる。神の倫理性の根本原理である正義が成り立たない、というのです。果たしてこれが、初期イスラーム神学で大論争を惹き起こすに至りました。人間の自由意志の問題は、それはそれとして思想的には大変興味ある問題ですけれど、今日は神学上の議論にまで立ち入る余裕はございません。ただアラブ的思惟の典型的形態であるアトミズムの内蔵する問題性を指摘するだけにとどめておきます。

もう一つ、ここで申し上げておきたいことは、因果律(そして人間の場合には自由意志)の否定を伴うこの非連続的存在観が、イスラームの正統派——スンニー派と呼ばれている非常に大きな、ほとんどイスラームの大多数を占める人々——の根本的な哲学なのであるということです。もっとも、この哲学がスンニー派のなかで完全な形で確立されるのは、西暦11世紀から12世紀にかけてのことでありまして、『コーラン』自身はそこまでは明言しておりません。しかし、前にも申しましたように、『コーラン』の解釈学としてそういう考えがごく自然に出てくるのであります。

『コーラン』の解釈から出てくるだけではございません。実はこの存在の非連続性は、イスラームの生まれる以前から、アラビア人の世界認識を根本的に支配していたきわめて特徴あるアラブ的な存在感覚なのであります。まだ若かったころ私は『アラビア思想史』だとか、『マホメット』だとかいう書物を書きまして、そのなかでアラビア人一般のものの見方の注目すべき特質として、感覚の異常な鋭さということをさかんに論じ立てたものでございます。もうかれこれ40年も前のことで、若者の気負いみたいなところも多分にあったものと思いますが、しかしこの考えの根本そのものは、いまでも変わりません。研ぎすまされた刃物のようなアラビア人の感覚、わけても目と耳の驚くべき働き、遠い小さな物影をも的確に見分け、かすかな物音も鋭敏に聞き分ける。事物認識におけるこの感覚的鋭さこそ、古来アラビア人が自ら誇りとするところだったのであります。

しかし、この点に関連して、それよりももっと重要なことは、このように異常な鮮明度をもって、異常に尖鋭な輪郭で生き生きととらえられたあらゆる事物が、ポツンポツンととぎれていて、それぞれ独立に浮かび上がっているだけでありまして、それら相互のあいだに内的結び付きがないという事実なのです。私自身も昔好んで引用しましたカイロ大学の碩学、故アフマッド・アミーン教授の言葉にありますように、「凛然と輝く宝石が辺り一面にバラまかれている、しかしそれらの宝石を一つにつなぐ糸が通っていない」、つまり認識された事物がバラバラでみんなアトム的だということです。感覚的アトムとしての事物の集合、この特徴ある世界認識の様式に基づく一種独特の現実感覚が、イスラーム文化のアラブ性という形で、この文化のなかに組み込まれていきます。そしてこのイスラーム文化のアラブ的性格がやがてイスラーム文化自身のなかで、これと正反対なイラン的、ペルシア的性格と正面から衝突することになります。

イラン人(ペルシア人)の世界認識は存在の空間的、時間的連続性を特徴とします。そしてこの連続的世界は、アラブ独特の感覚的世界とは違って、限りない想像力の豊穣さからくる幻想性によって華やかに彩られます。しかし、そのことはいずれ第三回目にイランのシーア派イスラームをお話するときに話題とすることになりましょう。

いささか横道にそれてしまった感がありますが、とにかく私はここで『コーラン』に描かれている限りでのアッラー、神を、その人格性、唯一性、全能性の三つで特徴づけようといたしました。もちろんこれでアッラーを全部説明したことにはなりませんが、イスラームが『コーラン』そのものの段階において神なるものをいったいどのように表象しているかということは、おぼろげながらおわかりいただけたかと存じます。

そこで次の問題は、このような性格を持つ神にたいして、それと人格的関係に入るべき人間が『コーラン』ではどのようなものとして描かれているかということでありますが、もう制限時間を超えましたし、それにこの問題はどうしてもイスラーム共同体、いわゆるウンマの成立の問題に深く関わってまいりますので、この続きは次回にということにさせていただきます。


(72頁~80頁より抜粋)




♬David Sylvian and Holger Czukay - Mutability (A New Beginning Is in the Offing)





客観的なものを主観的なものに転調することでポエジーが生まれるというのは、
俳句の特質だといえる。(本文、55頁)




言葉の選択力と行と行の関わりの強さ (本文、70頁)




日本の歌曲の特徴は、それは演歌の特徴といってもいいが、言葉をメロディにしてしまい、同時にメロディを言葉として聴くことができるという点にある。ある音声学者が、日本人はメロディ自体を(言語機能をつかさどる)言語脳で聴いたり、(感覚機能をつかさどる)感覚脳で聴いたりするために、こういうことが起こるのだといっている。定説とはいえないが、傾聴に値する論だと思う。平安朝の物語を読めば、日本人が風の音や虫の声を聴いているうちに涙を流す場面がよくある。風の音や虫の声を言葉として聴いてしまい、意味を感じてしまうためだ。美空ひばりさんはこのような日本人に最大限訴える歌い方をしている。たとえば「ひばりの佐渡情話」に特徴的なのだが、高い声で伸ばす部分がある。音に過ぎないのだけれど、ひばりは言葉として歌い、日本の聴衆は言葉として聴いている。美空ひばりさんの歌い声は単なる音ではなく、表面に表れない意味がいっぱいに詰まっている。(本文、72-74頁)




私の印象でいえば、中島みゆきさんの歌には、都市が超都市へ変わっていくことへの不安や変わる以前への懐かしさが色濃くあるように思う。逆に、松任谷由実さんの歌は、名残惜しさは少しだけで、大部分では都市が変わっていく感性を肯定しているように感じる。(本文、76頁)




詩には、その時代時代で言葉の表現の先端を切りひらく高い価値を追求する側面だけでなく、多くの人々に強い印象を与え、愛唱される要素を備えた優れた詩も存在する。後者の意味で優れた詩であるための条件の一つには、その詩がある種の「流れのよさ」をもっていることだ。

詩の「流れ」とは、意味の移り変わりの速さと、その多様さ複雑さを含んでいる。流れのよい詩であれば、読む者、聞く者に入っていきやすいということになる。
詩と散文を分ける最も大きな要素は何か。どんな複雑な意味でも表現しようとすればできるのが散文の特徴であるのに対し、言葉の選択力が強く、行と行の結びつきも有機的で強いのが詩だといえるだろう。

しかし、詩がより複雑な印象を表現しようとするならば、一編の作品でもあるところは強く、別のあるところは弱くというように、いわばパンチの強弱が必要になる。ボクシングでも強いパンチばかりを打つよりも強弱をつけたほうが不思議と効くというが、詩でも同じことようなことがいえると思う。

演歌の歌詞のように、昔ながらにあるような言葉を強力な選択力で連ね、行と行の結び付きも規則正しく強い場合には、流れはよく整理されているけど、強弱や流れの複雑さは表現できない。これに対して現代の純粋詩は、パンチの強弱、つまり言葉の強弱が複雑で、行と行の距離もうんと詰まっていたり、少し離れていたりすることが自在にできるといえる。そういう流れのよさは、優れた詩であるための一つの大きな条件であると思える。

もう一つ大きな条件は、広くいえば言葉の選択力に類することだが、言葉の強弱の作り方に関する「着想の意外性」があることだ。これは、私たちが純文学とエンターテイメント文学を区別する時に使っている基準でもある。純文学には着想の意外性はあまり必要ないが、ミステリー小説などは意外な着想がどれほど立て続けに盛り込まれているかが重要な要素になっている。

小説についていえば、もう一つの基準は物語性があるかないかで、純文学には物語性は必要ないし、極端にいえば文章に意味がなくても価値が高ければいいということになる。純文学が比喩をよく用いるのはそのためだ。例えば、おまえの目は「ウサギの目のように」真っ赤だ、というような単純な直喩であっても、それは単に「おまえの目は真っ赤だ」というのに比べると文章の意味の流れを少し複雑にしている。暗喩などを使えばもっと複雑になるが、このように喩えを用いて意味は同じことを言っているだけだが、価値を増殖することができる。

エンターテイメントの場合は、物語性がはっきりしていて、着想の意外性があれば優れた小説だということができる。例えば、純文学作家として扱われているけれど、町田康さんの小説が読ませるのは、物語性よりも文体の着想のよさだと思える。文章の意味や物語の奇抜さではなく、着想の奇抜さ面白さを連続的に出せる点に、町田さんの優れた才能が感じられる。


優れた純粋詩の特徴は、着想のよさや流れのよさができるだけ目立たないように、自然にできていることだ。むしろ純粋詩の生命は「持続性」にある。それは長ければいいとか、ダラダラ続くとかいう意味ではない。さりげない持続に見せかけていながら着想の良さも言葉の選択力の強さも、ある意味での語りのよさもあるのに、それらは隠れている。何となくうまいと思われるのに、なぜうまいかははっきりといえないが、しかもある持続力があって、きちんと始めと終わりがある。そういう「さりげない持続性」が優れた純粋詩の特徴だと思う。(本文、85-88頁)





以下、抜粋…



わたしはあるいている
ノートを化かえ二十世紀の原始時代を
とことこ てくてく あるいている
はにかみながら あるいている

(谷川俊太郎「わたくしは」より、『二十億光年の孤独』)




わたしの屍体に手を触れるな
おまえたちの手は
「死」に触れることができない
わたしの屍体は
群衆のなかにまじえて
雨にうたせよ

  われわれには手がない
  われわれには死に触れるべき手がない

(田村隆一「立棺」冒頭、『四千の日と夜』)




割礼の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ

(塚本邦雄『水葬物語』より)




母の内に暗くひろがる原野ありてそこ行くときのわれ鉛の兵

(岡井隆『斉唱』より)




わたりかね雲も夕を猶たどる跡なき雪の嶺のかけはし

(正徹『草根集』より、1459年頃)




一心安楽琉球鳳凰木散華
いっしんあんらくりゅうきゅうほうおうぼくさんげ

(夏石番矢『巨石巨木学』より)




”此秋は何で年よる雲に鳥” 芭蕉
有一先生、この句の眼目は”なんで年よる”ではなかったのでしょうか、
「鳥」ではなくってね

(吉増剛造『「雪の鳥」』あるいは「エミリーの幽霊」より「an Ode to  "bird"」の一部)







♬John Zorn / Black  (Elegy, 1992)




夕方、海に向かって歩いた。波止場に子供たちが集まって騒いでいるのが、道の遠くからでも見える。気がつくと、ハーリー船が3艘、銅鑼の音とかけ声とともに、湾内をゆっくり走っていた。学校の授業なのか、地域の活動なのか分からない。20名ほどだろうか、大人の先導のもと、中学くらいの子らが声を合わせ、元気よく波をかいている。船ごとに男女に分かれてるのが、その声からわかる。船着き場で順番待ちをしている女の子らは素足で、はないちもんめをしている。「あの子がほしい」「あの子じゃわからん」波のように笑いさざめく歓声が天に響く。

※写真は別の所です

…という本が、ある晴れた日の午後、私のバイクのシートの上にちょこんと乗っていました。手垢のついた古本です。通りがかりの誰かが、道に落ちていたのを手に取り、しばらく思案したのち、地べたに置き去りにするにはしのびなく、たまたま近くに停めてあった私のバイクが目に留まって、ここなら大丈夫と軽い自己暗示をかけつつ、そっと置いて立ち去ったのかなと、はじめは思いました。しかし、処分に困って仕方なくというぞんざいな置き方ではなく、表紙をきちんと乗り手が立つ側に向け、そしてシートの長辺短辺ときっちり平行に、さらには中心よりもやや右側の安定の良い場所に置かれていたのです…読んで下さいといわんばかりに。手に取って開いてみると、その文章にドキリとしました。そして著者の名前まで私にふさわしく思えてきたのです…「五味太郎」これは私宛の贈り物に違いないという確信。この「春うららの沈黙交易」に対し、いかなるものを以て返せばよいのか?とりあえずバッグに入れて持ち帰ることにしました。

抜粋を2つほど、

”考えるということ … 考えるとわかる、と昔から何故か言われ続けてきましたので、わかるために考えるのですが、はっきり言ってこれはウソです。「彼の気持ち」なんてものは考えてもわかるわけないのです。当人もよくわからないのですから。考える、ということは、整理する、という意味です。わかっているものを手がかりに整理すると、もう少しわかる、ということです。「彼は見栄っ張りだ」ということを手がかりに整理すると「彼は馬鹿だ」ということがわかってくるといったことです。わからないものを手がかりにしてもしかたがないということです。”

”自殺するということ … わりあい親しかった人が自殺したということを五、六回経験しましたが、彼らに共通したものは「今生はあきらめた」という感覚です。で、いずれまたやり直すぞ、という信念みたいなものもちょっと感じました。ぼくは今生だけでもう十分だ、またやり直すなんてとんでもない、と思うので、なるべく余らないようにやってるわけです。”

これを以て返礼とす、なんてことにはならないけど、落とし物をただ拾ったというだけでは贈与に対する反対給付義務は意識されず、「これは私宛の贈与である」という、いわば自分勝手な思い込みがあってこそ、そこから積極的に意味やメッセージを汲み取ろうとするわけだから、人って不思議なものだ。今のところ、これをくれた「誰か」に何を渡せばよいのか分からないけど、沈黙交易する場所だけは、よく晴れた日の私のバイクのシートの上ということに決まっている。


その後、図書館で、2冊の本とCDを2枚借りました。

・「妊娠小説」斉藤美奈子…タイトルずばりの、著者の軽妙な編集力と考察が愉快な本です
・「現代日本の詩歌」吉本隆明…新聞のコラムを編んだ本、吉増剛造から宇多田ヒカルまで
・「マーラー、シンフォニー#9」シノーポリ…先日HDDの中のデータを消してしまったので
・「さらばんじでむぬ35歳」玉栄昌治…カセットテープの復刻版。昔ラジオから流れてた島唄





♬玉栄昌治~浜千鳥節

唄・三線:玉栄昌治、琴:識名盛幸、録音:上江洲安吉




 
Hector Zazou: Enoch Arden,  Hiroshi Sugimoto: Seascapes





三年の道標

4:3の光景

うみとよみ

命のダンス


気がつけば大晦日になりました(笑)年越しですね♪
更新ずっとさぼってきたので、文章脳がなまってます。
片付けも延ばし延ばししてきて、そのまんま残ってて、
これからがんばります!でも、もうすぐ日が暮れる.....

今年もいろいろありましたが、笑顔で来年を迎えましょう♪
みなさんも、来る年がどうかよい年でありますように!



修学旅行夜行列車南国音楽~Live at Suntory Hall

GONTITI "Fingering Christmas" 1990