昨夜、パソコンを閉じると、足元にいた猫がこちらを見上げ、一声鳴いてから、いつもの場所へ戻っていきました。
もう少し甘えてくるのかと思いましたが、呼んでも知らん顔です。
しばらくすると、今度は自分からやって来て、膝の上で喉を鳴らし始めました。
さっきは来なかったのに、今度は呼んでもいないのにやって来る。
思わず笑ってしまいました。
最近、こういう何でもない出来事が、以前とは少し違って感じられます。
私たちは、何かが起きるたびに、その前後をつなぎ合わせ、一つの物語を作っています。
あのとき、こうしていれば。
あの人が、ああ言ってくれたら。
別の選択をしていれば、違う人生になっていたかもしれない。
けれど、実際に経験されたのは、起きたことだけです。
起きなかった出来事は、あとから頭の中に描かれた、もう一つの物語なのです。
これは映画に似ています。
スクリーンには、さまざまな人物が登場し、出会い、別れ、喜び、悲しみます。
観ているうちに、私たちは登場人物になりきって、あのとき違う道を選んでいればと考えます。
しかし、スクリーンに映っているのは、いつでもその場面だけです。
別の展開を想像することはできますが、その想像もまた、今映し出されている場面の一部です。
さらに不思議なのは、そこに登場する人物が、自分の意志で物語を動かしているように見えることです。
私たちの日常も、それによく似ています。
自分で考え、選び、決断している感覚は確かにあります。
けれど、次にどんな考えが浮かぶのか、誰を好きになるのか、何に笑い、何に傷つくのか。
そのすべてを、あらかじめ決めている独立した「私」は、どこにいるのでしょう。
自由意志があるように感じることも、選択しているように感じることも、否定する必要はありません。
ただ、そう感じていることと、人生全体を管理する主人公が実在することは、同じではないのです。
そして、この見方はさらに深いところへ続いていきます。
私たちは、過去から現在へ、そして未来へと人生が流れていると思っています。
しかし、昨日の出来事を思い出しているのは今です。明日の予定を考えているのも今です。
昨日という時間が、どこかに保存されていて、そこから今日へ何かが運ばれてきているのでしょうか。
映画は、静止した一枚一枚の映像が連なることで、人物が動き、時間が流れているように見えます。
一枚の映像そのものが、過去から歩いてきたわけではありません。
同じように、私たちが経験している世界も、すべてがそのつど新しく現れていると見ることができます。
夜空に打ち上がる花火を思い浮かべてみてください。
光が広がり、色が変わり、やがて消えていく。
一つの花火が時間の中を移動しているように見えますが、目に映る光は、その瞬間ごとに異なっています。
そして、今見えている光の中に、さっきの光も、これから現れる光もありません。
過去も未来も、今の光を眺めながら語られているのです。
もちろん、これは時間や物理的な変化が存在しないことの科学的な証明ではありません。
ただ、経験そのものに目を向けると、私たちが当たり前だと思っている時間の流れも、思考が描く物語として見えてきます。
では、その物語を経験している「私」はどうでしょう。
思考は浮かび、感情は揺れ、身体は動いています。
確かに何かが起きているように感じられます。
けれど、それらを一つ残らず所有している独立した実体は、どこにも見つかりません。
「私がいる」という感覚さえ、そのつど現れているのかもしれません。
そうなると、これまでの見方が根底からひっくり返ります。
人生というものがあって、その中で私が出来事を経験しているのではなく、人生があるという感覚も、私がいるという感覚も、出来事とともに現れている。
そして、その現れには、外側から何かを付け加える余白も、別の現実と比較する距離もありません。
別の可能性はない。
それは、未来が決められているという意味ではありません。
そもそも、これとは別の現実を選び直すために、全体の外側に立っている「私」がいないということです。
もっと穏やかになりたい。執着を手放したい。何者かになりたい。
そんな願いも自然に現れます。
けれど、あるがままでいようと努力し、そうなれない自分に苦しむ必要があるのでしょうか。
受け入れられないことまで含めて、すでに現れています。
何も欠けていないということは、何も望まないという意味ではありません。
好きな人には会いたいし、欲しいものは欲しい。明日が楽しみなことも、昨日を悔やむこともあります。
それらを取り除いた先に、完成された自分が待っているわけではないのです。
ここで「究極には何も起きていない」という、一見すると奇妙な言葉が、少し違った意味を持ち始めます。
何も見えない、何も感じないということではありません。
映画の中では何十年もの歳月が流れ、登場人物は年を取り、人生を終えます。
しかし、スクリーンそのものが年を取ったわけではありません。
物語の中では無数の出来事が起きていても、スクリーンには、そのつど映像が現れているだけです。
それと似た意味で、究極には何も起きていない、と表現することができるのでしょう。
ただし、スクリーンという別の実体が、世界の背後に隠れているという話でもありません。
映るものと映される場所、見る者と見られるもの。
その区別さえ、最後には一つの物語として現れています。
そして、瞬間が次々と生まれているという説明にも、まだ時間の流れが残っています。
次々と起きているように見えることも含めて、ただ、これしかない。
地球は今日も回り、季節は巡り、人は出会い、別れ、笑い、涙を流します。
何も変わらない日常が、昨日から続いているように感じられます。
それでも、そのすべてが、夜空の花火のように鮮やかに現れています。
人生を完成させる必要も、何かを悟った自分になる必要もありません。
そもそも、完成させなければならない人生と、それを完成させる独立した「私」が、最初からあったのでしょうか。
何も起きていない。
それなのに、すべてが現れている。
そして、その不思議さを理解しようとする思考さえも、今ここに咲いた一瞬の花火なのです。