人が亡くなったあと、その人はどこへ行くのだろう。
そんなことを、ふと考えることがあります。
身体がなくなれば、声は聞こえなくなる。
いつもの仕草も見えなくなる。
一緒に食事をしたり、笑ったり、どうでもいい話をしたりすることもできなくなる。
それなのに、大切な人を思い出したとき、不思議なことがあります。
顔をはっきり思い浮かべているわけではない。
声を再生しているわけでもない。
過去の出来事を思い返しているわけでもない。
それでも一瞬で、
「ああ、この人だ」
と分かる。
記憶よりも先に、その人の「感じ」がやってくるのです。
あの人と一緒にいたときの空気。
言葉になる前の温かさ。
少し照れたような笑い方。
何でもない時間に漂っていた安心感。
亡くなって姿が見えなくなっても、それだけは妙に鮮明に残っている。
では、私たちはいったい何を感じているのでしょう。
最近、魂や死後の意識について語られているものに触れる中で、とても印象に残る考え方がありました。
「本当の私は、個性そのものではなく、個性を身につける能力なのではないか」
というものです。
少し不思議な言葉です。
私たちは普通、
性格、記憶、好み、経歴、名前、家族関係などをひとまとめにして、
「これが私だ」
と思っています。
優しい。
せっかち。
人見知り。
よく笑う。
音楽が好き。
一人の時間が好き。
けれど、それらは人生の中でずいぶん変化します。
子どもの頃と今では違います。
二十年前とも違う。
昨日と今日でさえ、少し違う。
それなら、変わり続けているもののどれを「本当の私」と呼べばいいのでしょう。
そんなことを考えていると、ひとつの言葉が浮かびます。
香り。
人格よりも、もう少し奥にあるものです。
同じ曲を二人の演奏家が弾いたとします。
楽譜は同じ。
ピアノも同じ。
同じ音符を、同じ順番で弾いている。
それなのに、まったく違う音楽に聞こえることがあります。
「あ、この人の音だ」
と分かる。
音符には書かれていません。
テンポだけでもない。
強弱だけでもない。
間の取り方。
呼吸。
触れ方。
力の抜き方。
その人を通ったときにだけ生まれる、何とも言えない響き。
それを私は「香り」と呼ぶのが近いように思います。
人間も同じなのかもしれません。
優しさという言葉は同じでも、
その人の優しさと、別の人の優しさは違います。
笑顔も違う。
沈黙も違う。
愛し方も違う。
同じ「ありがとう」でも、その人から言われると何かが違う。
私たちは案外、言葉や人格よりも深いところで、その「香り」を感じ取っているのではないでしょうか。
もし魂というものがあるとしても、
今の人格が小さな人間のような姿で、そのまま保存されていると考える必要はないのかもしれません。
魂とは、
個性をまとい、経験し、表現する可能性そのもの。
そして、その表現には固有の香りがある。
そう考えると、
「魂そのものには個性がない」
という考え方と、
「死んでもその人らしさは消えない」
という感覚は、必ずしも矛盾しません。
服は着替えられる。
役柄も変わる。
舞台も変わる。
物語も変わる。
けれど、その役を演じるときに漂う何かがある。
人生とは、その見えない香りが、一つの身体、一つの人格、一つの物語を借りて表現された時間なのかもしれません。
だから人が亡くなったあとも、
私たちはその人を「情報」としてだけ覚えているのではなく、
もっと言葉以前のところで感じるのかもしれません。
この見方をすると、輪廻転生についても違った景色が見えてきます。
一般には、
一人の人間が亡くなり、
魂が身体から離れ、
やがて別の身体に宿る。
そんなイメージがあります。
もちろん、それが事実なのかどうかを断定することはできません。
けれど、別の見方もできます。
もし宇宙の根底に、時間や空間を越えて経験や可能性が保持される巨大な情報の場があるとしたら。
いわゆる過去生の記憶も、
「昔の自分の人生を思い出した」
というだけではなく、
ある時代、ある人物、ある経験の情報と、今ここで深く共鳴した
と考えることもできます。
そうすると、大切なのは、
「私は前世で誰だったのか」
ではなくなります。
なぜ、この場所を見ると懐かしいのか。
なぜ、会ったばかりの人なのに昔から知っているように感じるのか。
なぜ、経験した覚えのない物語に涙が出るのか。
その「なぜか惹かれる」という感覚のほうに、その人の香りが現れているのかもしれません。
スターシードという考え方も、同じように見ることができます。
「プレアデスから来た」
「シリウスと縁がある」
「地球に馴染めない感覚がある」
そう感じる人もいます。
文字どおり、宇宙の別の場所から転生してきた魂だと捉えることもできるでしょう。
あるいは、特定の宇宙的な情報や意識の質に、非常に強く共鳴していると見ることもできます。
どちらかに決めなくてもいいと思うのです。
なぜなら、本当に大切なのは、
「私は特別な魂なのか」ではなく、「この生命は何を表現しようとしているのか」
だからです。
花には花の香りがあります。
木には木の在り方があります。
猫には猫の表現があります。
人にも、一人ひとり違う響きがあります。
違いは、優劣ではありません。
むしろ、違うから世界は美しい。
全部が同じ香りなら、世界に「出会い」は必要なかったでしょう。
亡くなった人との対話やチャネリングについても同じです。
本当に死者と話しているのか。
高次の存在なのか。
潜在意識なのか。
集合的な情報場との共鳴なのか。
現在の科学では、一つの事実として断定できる段階にはありません。
だから私は、
「絶対に本物だ」
とも、
「全部偽物だ」
とも言い切らないほうがいいと思っています。
私たちはまだ、「意識とは何か」さえ完全には分かっていないからです。
もし意識の境界が、私たちが普段考えているほど明確ではないのなら、
ある存在の情報や香りが、別の人の意識を通して言葉や感覚として立ち上がる可能性も、完全には否定できません。
そして、さらに深く見ていくと、
不思議なところへ辿り着きます。
そもそも「誰が、誰と話しているのか」。
その境界さえ、少し怪しくなってくるのです。
アセンションという言葉もあります。
三次元から五次元へ移行する。
地球の波動が上昇する。
高次の意識へ移る。
さまざまな説明があります。
けれど、もっと普通の言葉にしてもいいのではないでしょうか。
アセンションとは、
特別な存在になることではなく、自分を縛っていた境界がほどけていくこと。
「私はこうでなければならない」
「もっと認められなければならない」
「失敗してはいけない」
「嫌われてはいけない」
「人生を自分で何とかしなければならない」
そんな緊張が、一つ、また一つとほどけていく。
すると、新しく素晴らしい人間になるのではなく、
隠れていたものが自然に現れてきます。
優しさ。
思いやり。
ユーモア。
繊細さ。
美しさ。
そして、理由のない笑い。
霊的進化というものがあるなら、
上へ上へと昇っていくことより、
余計なものがほどけて、ごく普通になっていくこと
なのかもしれません。
そして、ここまで来ると、
結局ひとつの問いへ戻ってきます。
「では、私とは何なのだろう。」
身体でしょうか。
人格でしょうか。
魂でしょうか。
ハイヤーセルフでしょうか。
意識でしょうか。
それとも、それらすべてが現れるもっと大きな何かでしょうか。
ところが、この問いをずっと辿っていくと、あるところから問いそのものが奇妙になってきます。
鳥の声が聞こえる。
コーヒーの香りがする。
猫が眠っている。
誰かの一言に笑う。
昔の人を思い出して、胸が少し切なくなる。
経験は確かにあります。
けれど、そのすべてを経験している固定された「私」を探してみると、なかなか見つかりません。
思考が起きる。
感情が起きる。
笑いが起きる。
涙が出る。
身体が動く。
人生が進んでいく。
よく見ると、
全部、起きている。
人生を生きている「私」がいるというより、
生命そのものが、ここで「私」という形をとって表現されている。
そんなふうにも見えてきます。
私は、この不思議な世界を理解するための一つの地図として、
REONE(Remember One)
という言葉を使っています。
分離して見える世界の奥にあるものを、もう一度思い出すための地図です。
そこでは、三つの方向から世界を眺めます。
すべては共鳴だった。
すべては調和だった。
すべては表現だった。
魂も。
輪廻も。
スターシードも。
アセンションも。
生も。
死も。
出会いも。
別れも。
愛することも。
失うことも。
一見すると、まったく別々の出来事に見えます。
けれど、もっと大きなところから見れば、
一つの生命が、無数の香りをまといながら、自分自身を経験している。
そう見ることもできるのかもしれません。
そしてここには、とても大切なことがあります。
「一つだから、個性は意味がない」のではありません。
むしろ逆です。
一つだからこそ、
無数の違いとして現れることができる。
海が一つだから、無数の波になれるように。
光が一つでも、プリズムを通れば無数の色になるように。
生命は一つでありながら、
あなたという形では、あなたにしかない香りになる。
だから個性とは、分離の証拠ではありません。
一つの生命が、自分自身の豊かさを表現するための違いなのかもしれません。
けれど、REONEという地図をいつまでも握っている必要もありません。
地図は、迷っているときには役に立ちます。
けれど目的地に着いたあとまで、地図を眺め続ける必要はない。
そこから先を、私は「TADA」と呼んでいます。
ただ、これ。
説明する前の世界です。
猫は、自分の魂について考えません。
風は、アセンションしようとしません。
花は、自分の波動が高いか低いかを心配しません。
ただ咲き、
ただ揺れ、
猫は気持ちのいい場所を見つければ、そこで眠っています。
人間だけが、
「私は何者なのだろう」
「どこから来たのだろう」
「死んだらどうなるのだろう」
と考える。
けれど、その問いさえ生命の表現なのでしょう。
だから、最後まで答えが分からなくてもいいのかもしれません。
大切な人を思い出して胸が温かくなったなら、その温かさがある。
切なくなったなら、切なさがある。
誰かと一緒にいて安心したなら、その安心がある。
くだらない話をして、みんなで笑っているなら、その笑いがある。
もしかすると私たちが「魂」と呼んできたものは、遠い世界に探しに行かなければならない何かではなく、
そんな瞬間に、すでに姿を現しているのかもしれません。
死んだあと、その人はどこへ行くのか。
その答えは、まだ分かりません。
けれど、大切な人を思い出した瞬間、
説明できないほど鮮明に、
「ああ、この人だ」
と分かることがある。
もし、その人の身体でも、肩書でも、経歴でも、言葉でもない何かを感じ取っているのだとしたら。
それこそが、
その人がこの世界に残した「香り」なのかもしれません。
そして私たちも今、
知らないうちに誰かの中へ、その香りを残しています。
何を成し遂げたかだけではない。
どれほど立派だったかでもない。
一緒にいたとき、どんな空気だったか。
その人の前で、相手がどれほど安心していられたか。
どれほど自然に笑えたか。
案外、人生の最後に残るものは、そんなものなのかもしれません。
ひとつの生命が、無数の香りをまとい、生と死を越えて表現されている。
そして、その説明さえ必要なくなったとき。
ただ笑っている。
ただ風が気持ちいい。
ただ誰かと一緒にいることが嬉しい。
もう、魂という言葉さえ必要ありません。
REONEも、
TADAも、
何次元かも、
何者だったのかもいらない。
ただ、この瞬間がある。
ただ、これ。
そしておそらく、
私たちがずっと探していたものは、
その「これ」から一度も離れていなかったのかもしれません。