十年以上前、ある上司が笑いながら言いました。
「俺の賞味期間は二年くらいだから」
最初は人が寄ってくる。仕事でも評価される。でも、そのうち飽きられる。
冗談だったのでしょうが、その言葉だけは妙に残りました。
当時の私は、人を惹きつける人には何か特別なものがあると思っていました。
話が面白い。知識がある。頼りになる。人の気持ちを読むのがうまい。
それもその人の魅力です。
ただ、それを自分の価値として維持しようとすると疲れます。
ずっと面白い人でいる。
頼られる人でいる。
一目置かれる人でいる。
嘘をついているからではありません。
証明し続けることに疲れるのです。
その頃、私は心理や意識についてずいぶん学んでいました。
もっと自由になりたいと思っていたのに、いつの間にか「自由になれている自分」を確認していました。
執着していないか。
怖れから動いていないか。
ちゃんと手放せているか。
世間の採点表を捨てて、別の採点表を持っていたわけです。
ある冬の日、車のエンジンを切って雪を見ていたとき、小学校四年生くらいの自分をふと思い出しました。
あの頃は、本当の自分も人生の意味も知りません。
自分を愛そうとも、赦そうともしていない。
それでも、自分に何か大切なものが欠けているとは思っていませんでした。
足りなかったのではなく、増えすぎたのかもしれない。
そう思いました。
自分についての説明や、こうあるべきという条件が増えすぎていたのです。
それから、人と関わる仕事の仕方も少し変わりました。
長くこの仕事をしていると、
「この考え方を変えれば楽になるのに」
と思うことがあります。
以前なら、そこに手を入れようとしていました。
けれど、ある頃から、それは本当にこちらの仕事なのだろうかと思うようになりました。
その人には、その人が経験している人生があります。
遠回りもするし、同じことを繰り返すこともある。
こちらから見れば無駄に見えることでも、本人にとって無駄とは限りません。
だから、余計なことをしなくなりました。
もちろん、黙って座っているという意味ではありません。
聞かれれば答えるし、浮かんだことがあれば話す。一緒に笑うこともあります。
ただ、その人をこちらが考える「良い状態」へ連れていこうとしない。
すると妙なもので、人といることがずいぶん楽になりました。
相手を変えなくていいと、自分も「変えられる人」でいなくていいからです。
治した。
救った。
気づかせた。
そんなものを自分の成績にしなくてもいい。
それでも、ときどき不思議なことは起きます。
たいした話をしていないのに、帰る頃には表情がやわらかくなっている人がいる。
何も解決していないのに、
「なんだか、どうでもよくなりました」
と笑う人もいる。
こちらが何かをした覚えはありません。
たぶん人は、言葉だけで関わっているわけではないのでしょう。
笑いが移るように、緊張も安心も伝わる。
それを共鳴と呼んでも、場と呼んでも、何でもかまいません。
名前をつけた途端、それを起こす方法を考え始めますから。
だから今は、必要な縁があれば会います。
話が始まれば話す。
何も起きなければ、それもそのままです。
人と同じ場にいること自体が、以前より面白くなりました。
先日も何人かで話していて、誰かの他愛のない一言から、みんなで笑い転げたことがありました。
誰も誰かを癒していません。
誰も成長させようとしていません。
役に立つ話など、一つもなかったと思います。
それなのに、帰る頃には妙に気分がよかった。
案外、私が長いこと探していたものは、
こういうところに普通にあったのかもしれません。
何もしないのに、何かが変わる。
いや、「何もしないのに」という言い方さえ、少し違うのでしょう。
みんなで笑っていただけです。