人と話していて、こちらまでつられて笑ってしまうことがあります。
たいして面白い話でもないのに、本人があまりにも楽しそうなので、なぜかおかしくなってくる。
昔から「箸が転んでもおかしい年頃」と言いますが、考えてみれば、箸が転がったことに意味などありません。
それでも、笑えるときは笑える。
その瞬間に「私はいま楽しい」と確認している人はいません。
長くいろいろな人の話を聞いていると、「人といると疲れる」という話がよく出てきます。
気を遣っているからだと思われがちですが、気遣いそのものが人を疲れさせるとは限らないようです。
テレビの司会者を見ていても、驚くほど周囲を見ている人がいます。
話していない人に声をかけ、何気ない一言を拾い、その人のおもしろさまで引き出してしまう。
ずっと周囲に気を配っているのに、窮屈には見えません。
本人も、その場を面白がっているからでしょう。
ところが、そこに「自分はどう見られているか」が入ってくると、少し違ってきます。
本当は人見知りなのによく話し、怖がりなのに堂々として見せる。知らないことでも、分かっているような顔をする。
セッションでも、そんな話を聞くことがあります。
若い頃には、それなりの理由があったのでしょう。
弱いところを見せたくなかったし、軽く扱われたくもなかった。
けれど、それを長く続けていると疲れます。
相手と話しながら、もう一人の自分が自分を見張っているからです。
今の言い方はよかったか。変に思われなかったか。
会話の裏側で、小さな自己採点が続いています。
これは、心のことを長く学んでいる人にも起こります。
この感情はエゴなのか。これは執着なのか。本心なのか。
以前は「立派な人」であろうとしていたのに、今度は「自然体の人」や「目覚めた人」であろうとする。
服を着替えただけで、採点は終わっていません。
以前、キャンプで大雨に遭った人の話を聞きました。
雨でテントが潰れそうになり、一人だけ外へ飛び出したそうです。
ずぶ濡れになってロープを張り直し、屋根にたまった水を落とし、あちらこちらを走り回る。
本人は必死です。
ところが、中から見ていた家族が言いました。
「こういうときが一番楽しそうだね」
本人には、楽しんでいるつもりなどありません。
でも、なんとなく分かります。
雨は降ってくる。テントは傾く。靴の中まで水が入る。
考えている暇などなく、身体が勝手に動いている。
そこには「自然体でいよう」も「今を楽しもう」もありません。
ただ、ずぶ濡れになってテントを直している。
そして妙に、生き生きしている。
理由もなく笑っているときも、懐かしいものを見て思いがけず涙が出るときも、たぶん似ています。
笑ってから理由を考え、涙が出てから意味をつける。
起きている最中には、案外説明などありません。
ところが人生全体となると、私たちは急に真剣になります。
この選択でよかったのか。この先どうなるのか。自分は何を残せるのか。
歳を重ねれば、残された時間まで気になってくる。
いつの間にか「この一回の人生を、ちゃんとやらなければならない」と思っています。
けれど、それは、この身体、この名前、生まれてから死ぬまでの数十年が「私のすべて」だという前提に立った話でもあります。
本当に、そこまでなのでしょうか。
意識が何なのかさえ、まだ私たちはよく分かっていません。
思考は頼んでもいないのに現れ、眠れば昼間の「私」は消え、夢の中では別の世界を現実だと思って生きています。
死によって何が終わるのかさえ、誰も確かなことは知りません。
それなら、人間として生きているこの一つの姿だけを、存在のすべてだと決めなくてもいいのでしょう。
そう考えると、この人生の失敗まで少し違って見えてきます。
誰かに嫌われた。思い描いたようにはならなかった。ずいぶん遠回りもした。
それはこの人生の中で起きた出来事であって、存在そのものの失敗ではありません。
身体が老いていくことと、存在そのものが衰えていくことも、同じではないでしょう。
そうすると、「この人生を何とかしなければ」という力が少し抜けます。
人生がどうでもよくなるのではありません。
むしろ反対です。
雨が降れば雨の中を走り、笑えるときには笑い、悲しいときには涙が出る。
うまくできなかった日まで、「人生を間違えた」という大事件にしなくていい。
私たちは、人間として生きていることを、少し「自分のすべて」だと思いすぎたのかもしれません。
この身体も、この性格も、この人生も、いまここに現れている一つの形だとしたら、少しくらい不格好でもいい。
予定通りでなくてもいい。
何者にもならなくてもいい。
人間をやっている間くらい、
もう少し安心して、人間をやっていてもいい。
うまくやるためではなく、
ここで起きる泣き笑いを、
そのまま生きるために。