「私」という言葉ほど、不思議なものはないのかもしれません。
朝起きて、
「今日は疲れた。」
「私は嬉しい。」
「私が決めた。」
「私の人生だ。」
私たちは一日に何度も「私」という言葉を使います。
あまりにも当たり前なので、その存在を疑うことはありません。
でも、ある時ふと、こんな疑問が浮かびました。
その「私」とは、一体どこにいるのでしょう。
体でしょうか。
脳でしょうか。
心でしょうか。
記憶でしょうか。
それとも、どこかもっと奥にいるのでしょうか。
探し始めると、不思議なことが起きます。
「これが私です」と言えるものが、見つからないのです。
それでも毎日は続いていきます。
朝になれば目が覚めます。
お腹が空きます。
人と出会います。
笑う日もあります。
涙が流れる日もあります。
仕事もあります。
季節も巡ります。
人生は止まることなく流れています。
では、その流れを生きているのは誰なのでしょう。
世の中には、人生についてさまざまな考え方があります。
努力すれば未来は変えられるという考え方もあります。
引き寄せという考え方もあります。
魂の計画や輪廻転生を語る人もいます。
どれも、一つの美しい見方だと思います。
私自身も、その一つひとつに触れながら、多くのことを考えてきました。
そして、ある時から「アカシックレコード」という考え方にも惹かれるようになりました。
もし、過去も未来も、無数の可能性も、一つの情報空間にすでに存在しているとしたら。
そこには、出会う人生もあれば、出会わない人生もあります。
成功する人生もあれば、静かに暮らす人生もあります。
まるで、果てしなく続く図書館に、無限の物語が並んでいるようです。
あるいは、無数の映画のリールが静かに保管されているようにも感じます。
以前は、その中から「私」が一つを選んでいるのだと思っていました。
でも、その「選ぶ私」を探しても、見つからないのです。
だから今は、「選ぶ」というより、「共鳴」という言葉のほうが近いように感じています。
条件が整うとラジオが自然に電波を受信するように、その瞬間ごとに、一つの物語が映し出されている。
そんなイメージです。
しかし、この話も人生という物語の中から見た景色です。
さらに静かに見つめていくと、もう一つ別の景色があります。
アカシックも。
パラレルワールドも。
魂の計画も。
人生という物語を理解するための、とても美しい地図なのかもしれません。
けれど、地図は景色そのものではありません。
その物語を歩いている「私」を探していくと、やはり見つからないのです。
すると、不思議なことが起きます。
アカシックも。
パラレルも。
人生も。
そして「私」という存在さえも、一つの見え方として静かにほどけていきます。
だから最近は、どちらが正しいという気持ちがなくなりました。
人生という物語から見れば、無限の可能性の中で、一つのストーリーが自然に共鳴しながら展開している。
けれど、その物語を超えた静けさから見れば、物語を生きる主人公も見当たりません。
どちらかを信じる必要もなく、否定する必要もない。
ただ、見ている場所が違うだけなのかもしれません。
そう考えるようになってから、不思議と人生をコントロールしようとする力が少し抜けました。
何もしなくなったわけではありません。
仕事もします。
笑う日もあります。
悲しむ日もあります。
人を愛し、別れを経験し、また新しい出会いもあります。
それでも、そのすべてを何とか思い通りにしようとしていた頃より、ずっと静かな時間が増えました。
人生は流れています。
その流れに抵抗するより、流れそのものを眺めている時間が増えたように思います。
この文章も、一つの答えとして書いたものではありません。
「私」とは何なのか。
人生とは何なのか。
その問いに、今も答えはありません。
でも、答えがないからこそ、見えてくる景色があります。
もし、この文章を読んで、ほんの少し立ち止まり、「本当に『私』はいるのだろうか」と静かに眺めていただけたなら、それだけで十分です。
現在、こうした問いを分かち合う対話の場として「REONE(リオン)」を少しずつ始めています。
何かを信じるためではなく、自分の中にある当たり前を、少し違う角度から見つめ直してみる。
そんな時間をご一緒できたら嬉しく思います。
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