当時の日本航空はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、ジャンボジェット機が
どんどん導入され、アメリカ便や北周りヨーロッパは団体旅行客も増えて
ジャンボジェットはいつも満席になっていました。
当時はまだ農業も全盛でしたから、羽ぶりの良い農協の団体もたくさんいましたねえ。
実はモックアップではなく、初めて本当のジャンボジェットに乗り込んだ時の
マザーユウキ、心の中で叫びましたよ。
「ひえー、こんなに大きいの? 本当にこれが飛ぶの?!!!」
なにせ、前から後ろまで全長68,5m、通路が二つあって、
客室部分だけでも50m以上。
50m走ができる長さなんてね。
しかも前部分は2階建て、2階はコックピット(操縦室)と
ファーストクラス専用のラウンジになっていました。
これだけでかいジャンボジェットですから、乗務するクルーの人数もDC8の倍以上。
チーフパーサー1名、パーサー2名(ファーストクラス担当とエコノミークラス担当)、
アシスタントパーサー2名、そしてスチュワードまたはスチュワーデスが
各コンパートメントに一人ずつで6~8名(正確な人数忘れちゃいました)
というチーム編成。
それにパイロットの3名が加わりますから、ちょっとした団体客並みの人数。
基本的にフライトのクルー編成は、毎回変わるのですが、ジャンボジェットは
半数のクルーが3カ月間一緒にフライトしました。
それはフィックスと呼ばれ、チーフパーサー、パーサー、アシスタントパーサー、
そしてスチュワーデス4名の編成。そのメンバーに毎回違ったクルーが
約半数参加してくるのです。
嬉しいことに、フィックスクルーになったマザーユウキは、
先輩スチュワーデス2名が同期生、マザーユウキと同期の2名
という組み合わせで飛ぶことができました。
ステイ先で同期2人づつの4人で、観光したりサイクリングをしたり、
買い物に行ったり、アムステルダムやハンブルグやアラスカで撮った写真が
残っています。
本当に楽しいステイでした。
その時は、その後起こる大きな悲劇を予想だにできませんでした。

ベルギーのブリュッセルで、左から先輩Mさん、マザーユウキ、同期Fさん、先輩Tさん。ヨーロッパは歴史を感じさせる建物がいっぱいです。