ケータイ
今さらながら、ケータイじゃいけなかったのか。
通勤と言う手段のない今、パソコンがライフラインとなった今、
果たしてスマホは役に立つのか。
情報収集にもパソコンの方が便利だし、
入力は残念ながら、慣れたケータイの方がはるかに速い。
しかも外であまり電池が持たない。
まだスマホ的な使い方に徹してないため、
ケータイでも出来るような事が多い。
しばらくケータイを使うつもり。
情報検索は不利だけれども
その分パソコンに依存する事になるわけで、
かえっていらん情報に振り回されずにすむ。
通勤と言う手段のない今、パソコンがライフラインとなった今、
果たしてスマホは役に立つのか。
情報収集にもパソコンの方が便利だし、
入力は残念ながら、慣れたケータイの方がはるかに速い。
しかも外であまり電池が持たない。
まだスマホ的な使い方に徹してないため、
ケータイでも出来るような事が多い。
しばらくケータイを使うつもり。
情報検索は不利だけれども
その分パソコンに依存する事になるわけで、
かえっていらん情報に振り回されずにすむ。
80歳
私は80歳まで生き長らえないであろう。
釈迦は80歳まで生きたとされる。
イエスは30歳ちょっとで殺されている。
この両者の違いはその宗教に影響を与えている。
何となく感じたのは、キリスト教があまり年寄りについての慰みの言葉を、
残さなかった事。
どちらかと言うと、若者の為の言葉であったように感じられる。
年寄りが老衰で自然死する場合での立場では、何も触れられていなかったと記憶している。
なので教会でもやたら多い、お年寄りの為の言葉は、
主に今の司祭らによって創作されていると見る。
仏教にはそんなお年寄りの教えがあったろうか。
私が記憶してる所では、法華経がどうも最晩年の頃を「想定した」お経らしいから、
釈迦自らの言葉ではないとは言え、
高齢の者を対象として省いてないと言えないか。
Android携帯からの投稿
釈迦は80歳まで生きたとされる。
イエスは30歳ちょっとで殺されている。
この両者の違いはその宗教に影響を与えている。
何となく感じたのは、キリスト教があまり年寄りについての慰みの言葉を、
残さなかった事。
どちらかと言うと、若者の為の言葉であったように感じられる。
年寄りが老衰で自然死する場合での立場では、何も触れられていなかったと記憶している。
なので教会でもやたら多い、お年寄りの為の言葉は、
主に今の司祭らによって創作されていると見る。
仏教にはそんなお年寄りの教えがあったろうか。
私が記憶してる所では、法華経がどうも最晩年の頃を「想定した」お経らしいから、
釈迦自らの言葉ではないとは言え、
高齢の者を対象として省いてないと言えないか。
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輪廻
私自身もキリスト教に入る前には、
少なからず輪廻なるものを信じていた。
だから前世は何かとかいうのにも興味を持っていた。
でも頭でっかちな思考で考えてみると、
どうしても矛盾が出てくる。
私なりの屁理屈とも言える、輪廻否定論は、
やめたグルッポに残してきたが、
一番分からない事は、仮に生まれ変わりなるものがあったとして、
その仕組みや決まりごとを決めた者は
一体誰だったんだろう。
ある意味如来の身であれ、元は人間であったわけだから、
自らの転生の決まりごとまで、自分で決めるわけはない。
となると仏教でも、仏の上位に来る存在が必要になってくる。
つまりどうしても最後には神を持ち出さなくてはならなくなる。
神でなくても、仏以外の何かがあるべきとなる意味で、
やはり輪廻と言うのはないんじゃなかろうか。
私個人としては、それを否定したくない。
自分の前世は、天使だと思い込んでいるから。
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少なからず輪廻なるものを信じていた。
だから前世は何かとかいうのにも興味を持っていた。
でも頭でっかちな思考で考えてみると、
どうしても矛盾が出てくる。
私なりの屁理屈とも言える、輪廻否定論は、
やめたグルッポに残してきたが、
一番分からない事は、仮に生まれ変わりなるものがあったとして、
その仕組みや決まりごとを決めた者は
一体誰だったんだろう。
ある意味如来の身であれ、元は人間であったわけだから、
自らの転生の決まりごとまで、自分で決めるわけはない。
となると仏教でも、仏の上位に来る存在が必要になってくる。
つまりどうしても最後には神を持ち出さなくてはならなくなる。
神でなくても、仏以外の何かがあるべきとなる意味で、
やはり輪廻と言うのはないんじゃなかろうか。
私個人としては、それを否定したくない。
自分の前世は、天使だと思い込んでいるから。
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4月8日
キリスト教的にはその日はイースター、復活祭であるのに、
確か仏教では花祭りだった、偶然今年は重なるわけだが、
かたやイエスが死から復活した記念日であり、
かたや釈迦がこの世に生を受けた日と、
何か極端に違ってみえる。
恐らくはどっちも史実とかじゃなくて、
ただ春分の日あたりに合わせて設定されたに違いない。
つまりは春の訪れを祝う日であり、その意味では仏教の方が春らしい感じがしている。
復活祭と言うのは、どうしても死と言う問題がつきまとってきて、
あまりおだやかじゃない。
その本来おだやかじゃない、死を記念としてしまったパラドックス。
仏教では死はタブー、忌み嫌われるものとして扱われたりしないか。
そもそも坊さんと言う言葉自体が普通、
葬式を思い起こさせるからか、
あまり歓迎されない。
最近仏教とキリスト教とを、比較する事にこだわっている。
確かにキリスト教は矛盾だらけで非論理的ではあるが、
仏経が取り上げなかったものも、含まれているのではないか。
つまりそれは「神」の問題であろうと。
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確か仏教では花祭りだった、偶然今年は重なるわけだが、
かたやイエスが死から復活した記念日であり、
かたや釈迦がこの世に生を受けた日と、
何か極端に違ってみえる。
恐らくはどっちも史実とかじゃなくて、
ただ春分の日あたりに合わせて設定されたに違いない。
つまりは春の訪れを祝う日であり、その意味では仏教の方が春らしい感じがしている。
復活祭と言うのは、どうしても死と言う問題がつきまとってきて、
あまりおだやかじゃない。
その本来おだやかじゃない、死を記念としてしまったパラドックス。
仏教では死はタブー、忌み嫌われるものとして扱われたりしないか。
そもそも坊さんと言う言葉自体が普通、
葬式を思い起こさせるからか、
あまり歓迎されない。
最近仏教とキリスト教とを、比較する事にこだわっている。
確かにキリスト教は矛盾だらけで非論理的ではあるが、
仏経が取り上げなかったものも、含まれているのではないか。
つまりそれは「神」の問題であろうと。
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