THOUSAND WINDS -140ページ目

幻想

こちらに戻って来て書いてて思ったのは、
別に他のブログと比べてここが特別いいと言うわけでもなかったと言う事。
私が関わったぐるっぽも何か寂れてるし、ピグも何か飽きてしまった。
基本的に人との関わりがないと言う時点で、もうどこで何やってようと変わらないこと。
ここでないといけないような何かを見い出せず、
しばらくむきになって書いてたあんなことはもうやれそうもない。
人によってはこんなブログで人との交流みたいな事も沢山行って、ブログから人の輪みたいなのを広げて
楽しまれてる、そんなのもあるだろう。
私の場合はここにいてもそう言ったものがこれ以上広がると思えない。
別に休会しようみたいなわけではないが
期待したほどでもなく、いくらか幻滅を覚えながら
縮小しようかと思っている。
日頃の思い付きみたいなのは書くだろうがもうメッセージめいたのは
あまり書こうと思わない。
何か幻を見ていたかも知れない。
普通の人のかなりスローペース位に戻って、
私がお邪魔したぐるっぽの行く末を見守っていようかなと。

今日の終わりに

この世界がどうなっているかについては興味がない。
これまでどんな歴史をたどって来たかも興味がない。
この世界が何の為に作られたのかも興味がない。
この世界において、私はどうあるべきかも興味がない。
この世界が今後どうなって行くかについても興味がない。
ただこの世界を作ったのかも知れない、
「あなた」に
じかに会って話をしてみたい。
この世界について、色々聞いてみたくて。

聖霊よ導き照らして下さい

聖霊来て下さいとか祈る。
まだ聖霊来ていないように祈る。
聖霊は私の外からやって来るみたいに祈る。
聖霊を受けなさいとか言って、洗礼の時に受けたりするんじゃなかったのか。
そんな何度も聖霊受けなきゃならんものなのか。
洗礼の際には聖霊は頂けなかったのか。
聖霊は頂くものじゃなかったのか。
祈る事によって聖霊を授かるものか。
私だけか知らないがどこか聖霊の定義混乱してない?
少なくとも言いたい。
聖霊があるなんて、羨ましいなと、おっと。
いつのタイミングでそれは得られるのか、ずっと持ち続ける事の出来るのか、何か資格みたいな事が必要なのか、
それを受けると一体どうなるのか。
どうせ受けられない身ではあるが。
キリスト教の数ある教義で一番「まとも」に思えるのは
この聖霊についての解釈、
他のごちゃごちゃした教派ごとの付着物なんか用はない。
聖霊がちゃんと受け取られてさえいれば、
もう間違いなく救われているはずと私は思う。
だからうらやましいと、
そんなもん受けられる資格
私にゃないんだし、
おっと。

一体何をお願いしますか?


たまに思う。私の所属してるぐるっぽ、ここも含めて、確かにみんな自己紹介だけして、その時にはよろしくお願いしますって書きますよね。
でも結局の所一体何をお願いしてますか。自己紹介書いたらもうそれで終わりみたいな人多いし、全体で見てももう何週間も更新の無いぐるっぽってやたらと多い。
そんなの見てたらね、ちょっと私なんか飽きてきちゃいましたよ。他にやれないものか、自己紹介さえすりゃいいのか。もっと参加出来るようなのはないのか。
だからと言ってもう人んとこ荒らすみたいに思われるような事はしない、好きにして下さい。私はお節介は苦手、だから自分とこを少しでも盛り上げたいのに、どうもうまくいかない。
結局はたかがこれだけのものなんか、期待かじょうだったか、
大昔にあった公開型の掲示板の方が良かったなと思うのは
私だけなんだろうか。
結局の所お願いして、どうされたいと思われてますか。どこのぐるっぽも何だか他人まかせでいっこも盛り上がってないんですが。

聖観音像の手

カレンダー来年の売ってる
ちまたじゃ仏像の写真のがはやってるらしい
ついキリスト教忘れて探して見る
安いカレンダではあったが
ただ一枚の写真に見とれる
聖観音像の手のひらの部分
ただそれだけを写した写真に
見とれてしまう
あたかもそれがかの
救い主の手のように思えて