THOUSAND WINDS -103ページ目

下手なフルート演奏(03)

下手なフルート演奏(02)

さて本題に移るか

教派なんか思い込みに過ぎない。
私にはそう思える。
これまでカトリック、教団、バプテスト、福音系、ペンテコステ派、クェーカー、単立、
そして聖公会と渡り歩いて来て、
中の人ほんとに自分の教派自覚してるのか、
私にはよく分からなかった。
ここのブログとか2ちゃんねるとかを見てると、
やたらと自分の教派の事書かれていたり、
人の教派の事書いたりが、
少なからずある。
確かに自己紹介する時には、
自分の教派を名乗るのもルールかも知れないが、
私があちこち行った先で、
そんなにキリスト教自体には違いが見つからなかった事。
つまりはどれも似たり寄ったりに見える。
そんなうちとこの教派じゃどうこう言う、線引きなんか見えて来なかった。
確かに一度中に収まってしまったらそうしたものは見えて来るのかも知れないが、
外から見たらやはり区別つかない。
逆に言うとそんな教派を持ちその立場で話さなきゃ、
自分と言う者の説明がつかなくなってくる。
つまりそうした立場、自分が何を信じているのか、
他者とどう違うのかを出さなきゃ、
つまりここにいるかも知れない
ルゥーヤさんは存在出来ない。
再三言うけど、宗教なしのルゥーヤさんはどこにもいない。
それはもはや別人でしかない。
ただそんな可能性がないとは限らない
と、
一応言い訳などを。

誰ですらもある

私がそうしているわけではないけれども、
また誤解を受けそうなんだが、
まあいいかどうせだから、
私は本当のことしかこのブログには書かない。
ここに書かれたことは全て本当のことだ。
それだけは誤解なきように願いたい。
でももしも仮に、ブログの上でうその書き込みをしたらどうなるだろう。
たとえば年齢をごまかしたり
性別を変えてみたり
住所をいつわったり
まあ宗教なんかもだ、偽ったり
そんな書き方も不可能じゃない。
例えばつまり
わたしか女の子で、
どっかの女子高に通ってて、
恋愛の事書いたり、
女の子言葉で書いたり、
絵文字なんか一杯使いたくって、
うそのブログを書いたとする。
まあそんなの一発でばれるだろうから、
やろうとも思わないし、
やってる者がいるとも思えない。
ただ小説を書く場合においては、
そうした事は全く自由に行える。
最初からこれはフィクションですよとうたってるから。
不思議だったのは
そんなフィクションの小説書きで
これまで結構学園ものの小説を
大量に書き上げて来た事。
苦手苦手と言いながらも、
なぜかそれらしく書けもして
ちょっとした変身願望だったのだが、
空想の中で、私は色々な者になりえると言うのが、
とても不思議だった。
ブログの上での小説以外の事は、
事実しか書かれていないから、
再度誤解なきように。
一応空想ごとならテーマで分けるし、
まあ内容で分からん事もないとは思うけどね。

誰ですらもない

リアル私ですらも、自己分析してて分かった事。
リアル私がこう言う奴だと自分の事を思い込んでるその
思い込みによってのみ
私と言う者は存在しているのだと。
つまりたまたまそう言う自分の状態を作り出してるだけで、
リアル私ですらも、全く別の何かに変えられる余地があると。
だから容易に書き変わってしまうような者が、
私自身であるはずがない。
たとえばリアル私が人に対して自己紹介する為の原稿を作るとしたら、今書いたものと一週間後に新たに書いたものとでは
完全に同じものとはなりえない。
つまりリアル私は、私じゃない。
ルゥーヤさんにしてもそれはたまたまここのブログでそう言うロールを持っているだけの事だ。
リアル私にしろ会社でのロール、家でのロール、教会でのロールがある。
つまり私が生きている以上それぞれの場所ごとに配役を演じているに過ぎないように思う。
じゃあどれが本物の私なんだろう、
そんな者なんかはなっからないのではないか。
私はこう言った人ですってのは常に相対的ではないのかと。
続く