例えば、受験校を決定する際、私は必ずいくつかの選択肢をどの生徒とご家庭にも用意します。
わからないなりに考えて、自分で進めることこそが受験の醍醐味だと思うからです。そこに私の主観が入りすぎることを極力避けねばならないと思ってきました。
私を信頼してくれるのはありがたいのですが、私は私の自己満足のために他人の受験をやっているわけではありませんから。

子供たちに仕事を任せても、あまりものは言いませんでした。私がもし口を出しているとしたら、それは切羽詰まっているか、準備が悪いか。そんな理由です。最近は、そんなことも言っていられないのが現状ですが。
なぜそうしてきたかというと、判断を私に委ねるものが出てくるのです。また、私の発言は案ではなく、決定事項になってしまうことを実感することが過去にありました。強い龍先生をやることが子供たちの成長の機会を奪うのではないかと思うと、そう簡単には話すわけにはいかなくなりました。

それから、子どもたちのヒントとなるような質問をすることがあります。
その答えが、決して私の思惑通りでなくてもいいのです。ずっとそういい続けてきました。受け取る側はなかなかそうは思えないようですが。
本当にね。どちらでもいいのです。ただその問いかけをきっかけに、考えたり、決断したり。そんなことのきっかけにさえなればいい。答えを出すときに、私に感謝なんかしてくれなくっていい。そこに私がいなくても、君がちゃんと歩いていけるならそれでいい。そう思ってきました。


実は、そういう私にも見返りを求めていた時期があったのです。
相手にはただ素直に聞くことだけを求め、自分だけが見返りを求める姿は、公正ではないと思ったのです。
私は、できるかぎりの最善を彼らに伝える。ただそれだけ。無関心でもなく、無責任でもなく。ただ精一杯彼らを愛してやるだけ。私に何かをしてほしいのでもない。そういう姿勢に意識的に変えました。
教師が主役ではならないと思うのです。主役は、現役の彼らです。先生と呼ばれるようになったとき、それは痛いほど実感しました。


こういうことを振り返ってきて。
私は関わろうとしつつも、どこかで傍観者のような立場を気取ってきたのかなと思います。少なくともそんな風に私をみてきた人はいるだろうなと思います。
昔読んだ本に書いてあった「時代が傍観者など作ってくれるかな」という台詞が、最近よく思い出されます。
戦火の中を飛び回る新聞記者を、友人で戦いの当事者であった男が心配して言った言葉に、「俺はただ、この状況をつたえるだけだ」と笑って見せたときのその友人の言葉です。

傍観者などになれないし、そうは望んでいないくせに、どこか距離を置こうとする私はもしかしたら臆病者なのかもしれません。そのキズを見せたくないから、傍観者を気取っているのかもしれません。
そんな距離から、がっつり捕まえられて説教される子どもたちは、どっちの私を見ていいのか、迷うだろうなと思います。

教師としての距離。
傍観者ではいたくない自分。
どこが境目なのか、最近よく考えます。


*同じタイトルで書き換えました。
>なかなか生徒から学ぶ謙虚さは持ち合わせていないようです。
 
 
一年前は、なかなか挨拶をしなかった生徒さん達が、ずいぶん挨拶をするようになったとのお話でしたね。私も先日伺った際に、お嬢さん方の爽やかなご挨拶と対応に感心することがありました。
子供達の面白いのは、本当に染み込むように、そして殻を脱ぐように変化していくことです。だからこそ、育つ環境は大事だと思うし、教師が何をどこまで教えるかを考えられることが重要だと思います。
 
 
9月に学校内のご様子を拝見させていただいて。失礼承知で申し上げるなら、多くの困難を抱えておられるのではないかと思いました。前途多難。そんな言葉が浮かびました。もちろんアンケートに書かせていただいたように、頑張ろうとしている方々がいて、それが楽しみだと思ったのも事実ですが。あの日、教職課程をあきらめて大学をやめたことを、初めて後悔いたしました。先生はいつでしたか、冗談まじりに学校に来るか?というようなことをおっしゃいましたが。行けるものなら行きますと申し上げたかったです。私が何様で、何ができると言うわけではありませんが。お力になれないことをこんなに悔やむ日が来るとは、あの時代には思いもしませんでした。
 
ただそんなバカだった私にも、わかることがありました。教えるということは我々も教えられること。ですから、成長することのない大人の姿から、子供は何を学ぶのでしょう?そういって、私はその姿勢が見られない方にはお辞めいただいてきたのです。エゴイストや傲慢と言われることよりも、ちゃんとした大人を見せることの方が大切でした。今できないことで判断しているのではなく、今ある問題に立ち向かう気力と勇気があるか。そんなことをいつも先生方には問うていました。
そんなことが許されたのは、もう後がないという危機感のあった学習塾だったからだとは思いますが。
 
 
せめて。生徒の後からでもいいから、心動かされるものがあってほしいものですね。誰かの炎さえ、うつされない石みたいな人もいると、稲盛和夫氏の話にありましたが、教師がそれでは困ります。人の炎を移されて燃えるか、できるなら自ら人にその炎を移せるような人であってほしいです。それに気づかないのなら、先生に出会った意味がないと思います。それはとても残念なことですね。
 
 
>とても将来計画は形にならない状況です。
 
先生からよくこういう言葉を伺います。常に様々な課題を抱えた現場におられるためでしょうか。そしてこのお言葉は謙遜ではなく、現実なのでしょうね。でもこの言葉があまり悲観的に聞こえないのはなぜだろうと思った答えは、次にありました。
 
>・・・・・・来られた方には丁重にお相手する雰囲気をいかに校内に浸透させるかが現在のテーマです。
 
現状が厳しいからといって、先生は道を見失ってるわけでも迷っているわけでもないんだなとわかります。あるいは、先生には見えておられる未来がまだ現実のものとして現場に提示できないだけだということなのでしょうか。
いずれにしても、現状が思うように行っていなくても、その道筋までもすべて見えないというのではなく、目の前のやるべきことをちゃんと積み重ねておられる。そんなご様子がわかるから、悲観的には聞こえないのだろうなと思います。 
 
私は自分のことに関してずいぶん悲観的にものを考えてるなと、メールを読ませていただきながら、改めて実感いたしました。
 
 
>女子は嬉々としてにこやかに対応してくれるので評判は上々です。
 
男子とはやはり違いを感じられますか?少なくともうちでは男女の違いは感じませんでした。自らやりたがるもの、周りに影響されて、そうすることがいいんだと考えるもの。唯一違いを感じたと言えば、みんながやるから、仕方ないからやるのは男の子で、そっぽ向くのは女の子といったところでしょうか。もしかしたら、私が女ゆえ、この性格がゆえかもしれませんが。
私は常に答えは見えていると思っていました。
9:1で、自分の本音なんて決まっていると。
でも、先生がおっしゃった49か51か。そのくらいの差で選択したというお話。
もし私がその選択をするなら、どんなことを考えて、どんな選択をするだろうと。
果たして、何を考えるのか。
そして、その選択をできるのか。


子どもたちも案外そんな状況なのかもしれません。
先の見えない不安。
それにじっくり耐えて向き合うことができない。
だから、簡単に答えを出してしまう。
簡単に答えを決めて、考えることをあきらめてしまうことで、不安から逃れようとする。


不安な世の中で。
私たちの、ちょうど小学生から中学生の保護者の世代は
新人類といわれて、世の中の常識なんてどうだっていいという学生時代をすごしてきました。
即決即断。先手必勝。力のあるものがのしあがる。それが実力世界だと勘違いしていたような気がします。
その親の世代は、今の不況に直面して、新たな不安を抱えている。
でも、身一つで自由にできたころと、現状は違う。
そんな親を見て、社会を目の前にして、考えることに耐えられない子どもが育つ可能性は十分にあるなと思います。


先生に先日いただいた本を、帰りに一通り読みました。
読んでいて、そんなことを考えていたのを思い出したのです。
そして私も、自分の抱えている問題からにげたい自分と戦っているところです。
これから、もう一度ゆっくりきちんと読みたいと思います。
ありがとうございました。

先日、あまり気乗りのしない方をお気に入りの場所にご案内しなければならないことがありました。
どれだけおいしいものも素敵な景色も、そういう方とご一緒しなければ、何の味もしないし、光も輝いて見えないのだと改めて思い知りました。


気に入らない人とは仕事はしません。そんな風に言っては、贅沢だのわがままだのといわれてきました。
私の希望ではなく、それ以外の選択肢はありませんという態度でしたから、やはりずいぶんと傲慢でしたね。
組織は常に、使えないものをうまく使うことが出来るのが一流だと要求して来ました。
使えないものを使えるように育てろというのならわかるのですが、そんな余裕もない会社でした。
私は、仲良しごっこをしたいわけでも、イエスマンがほしいわけでもありません。
子どもたちが「先生」と呼ぶに値しない大人を先生として出すわけには行かないと考えただけです。
でも、多分、この人たちには一生わからないと思ってあきらめて飛び出しました。

今振り返ると、決して私だけが正しかったわけでもないなと思います。
伝える方法はもっとあったはずなのに、私は説得することを投げ出したなという後悔はのこっています。
でも、本当に真剣に何とかしようと思うなら、納得の行かない人とどれだけやっても同じだとも思っています。


私が言う気にいる人というのは、ちゃんとお互いに評価して、尊重しあえる人。本音を見せられる人。
でないと、議論してお互いが刺激しあって、よりいいものなんか出せないと思うのです。
もちろん、いろんな考え方があっていいと思うし、むしろその方がずっと面白いと思います。
でも最終的にその人に対して、尊敬の念をもてなければ、信頼できなければ、辿り着けない世界があるような気がするのです。

なにをするのか。これも大事だと思います。
でも、誰とするのか。も大事だなと思います。
同じ方向を向いた人だけで固めるというのは、ちょっと怖い気もしますが、
ちゃんと見識を持った人たちの集団であれば、その怖さすら乗り越えられるのではと。。。
そういう結束力でしかなしえないこともあるのではないかなと思います。