いつもどおりの長居をしてしまいました。
稲垣先生までお引止めしてしまって。そして、私はとても楽しく過ごさせていただいてしまって。
毎度のことながら、どうもありがとうございました。

門を出るときに、ふと、何をしに来たんだったっけ?と考えて、そうだった!と思い出した次第でした。
二日ほど前に、ちょっと思うことがあって、どうしてもお話ししたくなって、抜け出していったのが本来の目的でした(^_^;)もう一つは、ちゃんと会話をすること。これは見事に沈没でした。自分の話ばかりをしていたというよりも、人の話をやっぱり聞いてないなと自分で気付いた瞬間がありました。この課題は、つぎにはもう少し、何とか^^;

先生にぶつけてみて、改めて浮き彫りになる自分を見て、あれこれと考えてみるのが好きなようです。先生は決して私の先生じゃないし、私は高校生でもないのに、いつまでも学生気分が、本当に抜けなくて困りものです。いつかご恩はお返しします。確かに、お約束します。そんなに遠くにならないうちに。


さて、お気遣いいただいた中3生ですが、確か前回お会いしたときにも、やっとなんとかなりましたと申し上げました。まあ手元が何ともならないうちは、先生のところへ出かける余裕もないので、いつもそんな言い様になるのですが。前回までは、もう大丈夫かな?と半信半疑だったのが、今回は、すっきり、もう大丈夫。後はやるだけ、といえるところまで来ました。
だましだましやれば、もっと早くに何とかなったと思うし、その時に本当はわかっていないんだけどなと思うことも、徐々に伝えていけばいいのではないかという人もあるのですが、そこをどうにも譲れないと思う気持ちを変えらないようで。闘いでした。一歩間違えれば、全部崩壊してしまうという。正直、私も疲れ果てます。もちろん、ちゃんと伝えるため、そして彼らの希望につなげるため、なのですが。
これをわかってくれる生徒と保護者がいるから、私は許されているだけだなとも思っています。でも、本当に一歩間違えると、取り返しがつかなくなってしまう。そんな薄氷をいつまで踏み続けるつもりだろうと思い始めています。そんな闘いではなく、それでいて妥協しないでいい方法を探し始めています。


そして、帰りに、谷川俊太郎さんの本を探しに本屋へ行ったのですが、残念ながら目当てのものはなく。
以前先生が話しておられた長田弘さんの詩集で、私の好きな画家の絵を挿絵としているものをみつけて、ちょっと贅沢をして買ってしまいました。

お気に入りの詩集と、おいしいパンと、素敵な先生方との時間と。
なんとも贅沢な一日でした。
とりあえず、日曜日までは勉強漬けで頑張りたいと思います。


私は何をよしとしてきたのか。

割と人のことに一生懸命だった私ですが、自分のことは、常にみんなの輪の外だと思ってきたんだなと前の文章を書きながら、改めて実感しました。
誰かが前へ出たいなら、どうぞ。というし、出る人がいないとか、私が出た方がいいというのなら、出ます。
いつもそんなスタンスでした。

何でもできると思ったのでも、流されていたのでもありません。
「自分」というものを決して自分で認めようとしてこなかった結果なのだなと思います。
もちろん、こうしたいという気持ちはありました。しかし、それはいつも我慢するべきで、冷静に客観的に物事には当たらなきゃいけないと思っていました。でも結局熱くなってくるとそうは行かない。そんなコントロールを出来ない自分が嫌いでした。

誰かに必要だと思われることがうれしかったかというとそうでもありません。
でも、なんでもいいよ。なんでもやるよ。というスタンスは、やはり拒否されたくない、受け入れられたいと思い続けてきたことの結果なのかなと今さらのように思います。物心ついたころから、私はだめな人間で、希望なんか持ってはいけないんだと言い聞かせてきたところがありましたから。

これが、滅多としなかった過去の自分の自己分析です^^;
今は、大丈夫です。たぶん。。。うん。大丈夫。
自分でこうしたいって思うことをちゃんと確かめて、そのためにどうするかを考えて動いていますから。
それぞれが何に気持ちよさを感じるか。
これは、私が卒業生筆頭と呼ぶ男がよく使う台詞です。
彼は、お互いの意見が相容れなかったとしても、それぞれの価値観は違うから。なんて言葉で片付けたりしない男なので、安心して話ができる人間の一人です。

最近はよく後輩たちの就職活動のために話をしに来てくれます。その彼がいうのが、先の台詞です。
たとえば、うまく宣伝して買ってもらえたらうれしいのか。
自分が勧めたものを買ったお客さんに満足してもらえたらうれしいのか。
教育をした人たちが成功したらうれしいと思うのか。
書類整理や情報処理を通して、会社を円滑に回していくことを喜びと感じるのか。
お金よりも人なのか。
人よりも実績がすべてだと思うのか。
自分がどういうものに喜びを感じるのか。そんなことを後輩に聞いていました。
なるほどなと思いながら話を聞いていました。


例えば、リーダーとして皆を引っ張って行きたいのか。そのリーダーを支える役目をしたいのか。職人でいたいのか。誰かにプロデュースされながら、表に出てパフォーマンスする役目がいいのか。それとも裏方で誰かをプロデュースしたいのか。
自分がどうしたいのかをわかっておくことは確かに必要です。そして、同時に、そのやりたいことが自分に向いているのかを確かめておくことも必要だと思います。出来もしないのにリーダーをやりたいという意欲だけでは、自分だけでなく皆を巻き込んで失敗ということになりますから。

そういうことに、学校行事やクラブなどは有効なんだなと、先生が生徒さんに話しておられるのを聞きながら考えていました。
やってみたいと思ったリーダー役がうまく出来なかった。だから方向転換するという選択もあるし、何が原因でうまく行かなかったのかを考えて、方向を修正するということも出来る。リーダーとなるために何を学んでおくべきかと考えることも出来る。
あるいはそういう団体行動を通して、自分はこういう立ち居地が好きなんだなと確かめてみることも出来ますよね。

地元の中学校も、このひと月、行事のオンパレードでした。
この話しをしながら、ぜひその中で自分のやりたい場所を少しでも考えてみなさいと伝えました。
学校生活は長い暇つぶしだといった人がありましたが。
長い暇つぶしとするかどうかは、やはり本人も含めて、そこに関わる人にかかっているような気がします。

20年位前までは、聞き上手で通っていました。
にわかにはお信じになれないでしょうが(^_^;)

話しをしたいと強く思うようになったのは、阪神淡路大震災の後だったと思います。
あの地震は、私が塾の内紛に巻き込まれて、退職した直後のことでした。
冬期講習の終わりに手塩にかけて育ててきた生徒を手放さなければならなかったこと。
大事なときに、動くお金もなく、語る場所もない自分がとてもふがいなかったこと。
いろいろなことが重なって、その後、塾を代表するという立場が重なって、いつからか私は語ることがくせになっていたようです。

最近、それだけでなく、人の話を聞けなくなっているんだなと気付きました。
いえ、私は聞いているんです。そして考えている。
けれど、会話としては成立していないなあと実感することが度々ありました。
誰かが何かを話しても、すべて自分のことに置き換えて、とにかく自分の話をしてしまう。
それでは、キャッチボールにはなっていないですよね。

そこで思い出したのですが。
数年前、関西ローカルの夕方のニュースで、兵庫だったか、京都だったか。割と農村部の小学校の先生が、作文指導を通じて、会話をするということに取り組んでおられるレポートを見たことがありました。
会話が出来ないことに危機感を持って、そういう指導を始めたのが今から10年ほど前といいますから、ずいぶん早い対応だったなという感想を持ったのを覚えています。内容をはっきり覚えていないことがとても残念なのですが、その会話の訓練、私にも子どもたちにも必要だなと考えています。
相手に関心を持つこと。それをちゃんと伝えること。
私の問題と子どもたちの問題の根本はちょっと違いますが、このままでは会話が成り立たず、大切なことが伝わらなくても仕方ないかなと思うので、何とかしたいと思っています。


昔、私が聞き上手といわれたのは、正直に言ってしまうと、即答する自信がなかっただけのことです。だから話しを聞いて、じっくり考える。要は返事を先延ばししているだけでした。
いろんなことを考えて、即答する自信がついたせいか、とにかく自分のことをしゃべる。
なんとエゴイストだろうとつくづく思います。

聞いてあげることのできる余裕。
この人には話したいと思ってもらえるような、そんな姿勢を持ち合わせたいと思います。
先生と呼ばれるものとしても。人としても。
自分がどうしたいのかを考えていて。
自分のやりたいこととか、やるべきだと思っていることが、
社会のニーズにあっているのか。
そもそもニーズは何なのか。
そんなことを繰り返し考えてきました。

社会が子どもを甘やかしてほしいというなら、それに答えるのがニーズなのか。
そういう社会だからこそ、甘やかさないことが、社会に必要なことなのか。
そんなことを繰り返し。

私は、そういう社会の流れに関係なく正しいと思うことをただ伝えたい。そう思ってきました。
そうすることは、わかる人にはわかる。評価されると信じてきたし、今でもそれは変わりません。
ずれていることを承知で、やってきた部分があるのです。

でも、それはあまりにも少数で。
子どもたちが社会に出たとき。
私の教えたことを信じて、評価されるならいいけれど。
それが正しいとは認められずに、返って苦労させる結果になっていないかなと思うことがありました。


正しさとは、結局自分のものだけでしかないことは理屈ではわかっているのですが。
では、「先生」とよばれる仕事をしていて、何の正しさを彼らに伝えればいいのだろうというところへ
私はまた戻ってしまうのです。

結局その答えを出さずに、時代遅れだとわかっていても、自分のスタイルにこだわってきた。
それが私の事実です。
私の目から見ても、え?と思う先生も多くいますが、案外みな、そんなものかもしれないなと思うようになりました。
大人も子どもも。男女にしても。
お互いが理解し合えれば、こんな風に社会がとか、正しさがとか、振りかざさなくてもいいのかもしれません。