太宰治の『人間失格』をまた読み直しました。
学生時代にこの作品をレポートに書いたこともあります。
何度読んでも、考えさせられます。
罪の意識。人間。
主人公の大庭葉蔵が懊悩や憂鬱を隠し、おどけて人を愉快にさせ、人を欺き、本当の自分を決して見せない所が、何だかショパンに似ているなと思いました。
リストがショパンについて書いている本があって、それを読むと、ショパンも自分の心の内は、他人に頑なに見せなかったようです。
そして、人を楽しませて、自分自身に関心が向けられないようにしていた。
自分の考え等をうっかり打ち明けてしまった時には、大変後悔した様子で沈黙したそうです。
ショパンも葉蔵の様に、人間を恐れていたんだろうか?
罪のアントニムは、何だろう?
罰?
罪と罰はシノニムか?
と、葉蔵が考えを巡らすシーンが何故か好きで、私も「罪と罰」についてよく考えます。
罪のアントが分かれば罪の実体が掴めるかもしれないと、葉蔵は考えます。
以前にブロ友さんが「罪」について興味深い記事を書いてらっしゃいました。
キリスト教において、同性愛は「罪 sin」だが「犯罪 crime」ではない、と。
葉蔵の友人の堀木は、罪の対義語は「法律」と答えていました。
犯罪は法で裁かれるから、犯罪のアントが罰である、という私なりの答えに辿り着きました。
「罪 sin」は何だろう?
霧ががって、見えるようで見えない答え。