大学でドイツ文学の卒論を書いていた約1年の間、ずっと聴いていたのがフランクの《交響的変奏曲》でした。

この曲とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の入ったアルバムをMD(←懐かしのウォークマン)に入れて、リピートで流しておったのです。

こう毎日聴いていると曲の構造が物凄く見えます!最近聴いてみたら未だに覚えており、指揮できるかもしれないくらい頭に入ってますわ(笑)


この曲の構造と性質、卒論で研究していたミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』と非常に似通っており、フランクについても論文に書こうとしていました。先生から「詰め込み過ぎでは?」と言われ断念した為、卒論の切れ端としてblogに認めます。

前々から記事にしようと、何度か触れましたが、音楽理論が分かって来たので、改めて論じます。


 交響的変奏曲の凄さ

まず、どんな作品か?構成は下記。

⬆️Wikipediaより


一番凄いと思ったのは、第3変奏のトリルから、ガラッと雰囲気が変わって第4変奏へ向かう所。

短調→長調になるだけでなく、違う曲始まった?ってくらい劇的変化!数小節でよくこんなに変わるわねびっくり

何故こんなに驚かされるかと言うと、

前半はずっと霧がかった様に何が主題かぼやけていて、変奏により僅かに見えて来る程度。それが後半でやっと「こういう曲なんや!」って分かるんです。


  音符似ている構造↓

映画『カメラを止めるな』…前半はゾンビ映画。何を見せられているんだろう?と思いきや、後半でメインストーリーが出て来て「こういうことね!」と、タイトルの意味も分かり納得する。

ラヴェル『ラ・ヴァルス』…ラヴェル自身も言っていたように「霧がかっている」所から、舞曲のリズムと共にワルツ(ラ・ヴァルス)がはっきり見える。

フランクも、トリルの所で舞曲のようなリズムが現れて、全てが動き出す。


このように、前半は謎めいていて「何や?よう分からん」と思わせるから、後半とのコントラストが抜群に効く。

フランクは、変奏曲なのに一味違います。モーツァルトのきらきら星の様に、はっきり主題を提示していない。変奏を繰り返す毎、少しずつ形になって行く。それでも、長調になるまではフワフワしてます。

循環形式(フランクの特徴)が用いられ、切れ目なく繋がりを持たせながら、全体像を作っている。


 音符前半の仕掛け

前半のミステリアスで不思議さ・不気味さを含んだ雰囲気、映画『ハリーポッター』の曲にも似ています。

あのフワフワ漂う感じは、どこから来るのか?

●終止が弱い(恐らく完全終止が無い)

●次々転調して調が定まらない→フワフワ感

不気味さは、減七和音や半音階が多い所為か。

ハリーポッターもそうですが、魔法とか神秘的な感じを出そうとしたら、こうなるのかな。


中間部は、ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の第二楽章に似た甘美な旋律があって、まるで第二楽章から第三楽章に移って行くかのようです。

ラフマニノフの協奏曲も、循環形式っぽいですよね?各楽章の繋がり。同じ旋律を他の楽章でチラリと出している所。

どこへ向かうか?目的地が明確でなく漂う感じなんかはスクリャービンにも似てますね。


フランクは19世紀の人ですが、20世紀音楽の先駆け的なことをやっていたんじゃないでしょうか?

フランス音楽であれば、フランク→フォーレ→ラヴェルという流れもあり?キョロキョロ


 音符後半の大変身

長調に変わってからは、主題が大変身します。ショパンのポロネーズの様に、はっきりしたリズムに乗せて煌びやかになります。

もし最初からこんな曲だったら、キャッチーで取っ付き易いですが、前半の「よう分からん」感じがあってこそ、後半がより生き生きと際立つのです。

前半に焦らされ、「地味で退屈」とさえ思われていたのが、カタルシスを迎えてスッキリ終わります。

フランクはオルガニストだった為、キリスト教の苦難からの救済を示しているのかもしれません。


 文学での循環形式

エンデの『鏡のなかの鏡ー迷宮』は、循環形式を文学で用いたらこうなるだろう、という構造です。

30の短編が、別の話でありながら繋がりを持っていて、最後の話が最初の話に帰って来る。

最後と最後は、クレタの迷宮・ミノタウロスのギリシャ神話がモチーフとなっており、読者は迷宮へと誘われます。

タイトルに「迷宮」と入っているように、この短編集全体が迷宮構造となっています。


終止感のない繰り返し

短編一つ一つは、解決しないまま、宙ぶらりんで終わります。ある話は、エンディングが来たと思いきや、また同じことが繰り返される…という終わり方。明確な終止感がありません。

短編の中の一節に「誰も到着することはないでしょう」という台詞があるのですが、正にその通り。辿り着くことなく彷徨い、迷宮の中へ中へと。

変奏曲的繋がり

「黒布」というワードが登場し、その次の短編で「黒いカーテン」というワードが出て来る。

このように、イメージの繋がりがある為、話の内容は異なっても全短編の統一感・全体像が朧げにも感じられます。

共通点まとめ

フランクの変奏曲と比較すると

●どこへ向かうか分からない

●到着地点が見えない

●主題がイメージの繋がりを持って繰り返される

●構造・内容が作品全体を表している

●主題は最初ぼやけていて、最後に明確になる

という点が共通します。

目的の違い

異なるのは、『鏡のなかの鏡』には前半から後半の劇的変化がないこと。

どちらも変容を重ね行きますが、

フランクの場合は救済・カタルシスがあって終わる。

エンデの場合、迷宮からは脱出できないので、「また繰り返されるだろう…」というエンディング。

英雄がミノタウロスを退治しに迷宮の奥へ向かうが、見つけた時には既に変身している為、決して辿り着くことができない。

これは、エンデの有名な『はてしない物語』と同様、自分でない誰かになったら、自分自身を忘れてしまうから。

このようなテーマを短編集全体の構造として作られています。


生から死、死して新たな生。

変容を繰り返しながら何度も生まれ変わる。

東洋人なので、輪廻転生を思い浮かべてしまいますが、フランクもエンデも西洋ですので、キリスト教の精神が入っているのかもしれません。苦難・救済・帰還



卒論を書いている時、何故こんなに《交響的変奏曲》を貪り聴いたのか?当時は無意識に惹かれていたのですが、作品を理解しようとした結果、共通する構造に、解読のヒントを得ようとしたのだと思います。


《交響的変奏曲》が好みで読書好きな方は、是非『鏡のなかの鏡』を読んでみて下さいウインク