昨日、1日遅延したLH飛行機と共に、
羽田空港に到着するやいなや、
日本音楽コンクール声楽部門の会場へと向かいました。
一次予選を通過した21人のコンペティターによる二次予選です。
11時の開始から15時頃まで、しっかり全員の方のお歌を拝聴しました。
今年は歌曲部門ということで、日本歌曲は言うまでもなく、
ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語、ロシア語と幅広いレパートリーが聴かれました。
まず、通過され本選へ進むこととなった7人の方々に、お祝いを申し上げたいと思います。
21人の方それぞれの歌に、それぞれのここまでのドラマがあり、別々の場所で努力を重ねてきてこの舞台に立っているのだと感じると、
競技会とはいえ、否、競技会ゆえの緊張感と感動がともなうものだなと思います。
結果がどうであれ、その日のその瞬間のためにベストを尽くす、果敢に挑戦し、言い訳をすることなく最後の瞬間まで出し尽くせる人には、
必ず新しい自分自身が待っています。
言い訳をせずにベストを尽くせる、というのはひとつの立派な才能なんです。
年を重ねれば重ねるほど、できなくなってきます。
「選曲が悪かったし」「仕事が忙しい中での挑戦だった」「前後の出場歌手との噛み合わせが悪かったし」
大切なことは、
その日が終わる時、
ベストを尽くしたと胸を張って言える自分が居るか?
そのプライドを持てたのであれば、それこそが最も偉大な勲章となるでしょう。
そして、明日の自分への大きな糧となることでしょう。
私もいちプレイヤーとして勇気をもらいました。
エネルギーを分けてもらいました。
本当にありがとうございました。
その上で、
拝聴しながらいくつか感じたことがあり、
選考結果と照らし合わせて、私なりに感じたことを皆様とシェアし、考えたいと思い、
記事を書くに至りました。
まず残念だったのは、
二次予選の時点でひとりもテノールが居なかったことです。
そもそもテノールの出場者が少なかったのはあると思いますが、
それにしても、アンバランスな選出と感じました。
本選出場の方々の声種のバランスも、聴衆の方の気持ちを考えると、どう考えても「気持ちがいいほど完璧」、ではありません。
せっかくオペラ部門と分けての歌曲部門なのに、各年の特徴付けが曖昧な印象を拭えませんでした。
本選出場の方の中にも色々な強みを持っておられる方がいらっしゃいますが、
私の印象だと、
言葉のエスプリのひとつひとつを大事にする歌手の割合が、あまりにも少な過ぎます。
「たまにエスプリ」ではだめなんです。
すべて、取り逃がしていけないのです。
そういう執念を、己への厳しさを秘めた歌手が、二次予選で何人かの歌手の歌の中に聴かれて、私は胸を打たれたのですが、
そういった方のひとりも残されなかったのは、正直ショックでした。
私が私のものさしで物事を見ていることは承知しています。
でも私にはドイツでの私なりの失敗と成功の積み重ねの経験があり、私の信念は、私自身の努力で今後も磨きこそすれど、そう易々と揺らぐものではありません。
理想を頑なに追い求め、己の声に問い続ける歌手の威厳を、私はヨーロッパの現場で見てきました。
そういった方々は、結局コンクールのたかがもう一ラウンド進まなかった所で、
ご自身の課題はご自身で1番解釈できる方々だと思います。
昨日の自分を今日ははるかに越えて、3年後、5年後、10年後と、物凄いスピードで成長できる方々です。(結局長い目で見てそれが1番重要だと思うのですが)
ただ、昨日の選考結果からは、そういった観点をあまり感じることができず、少しショックでした。
そしてもう一つ、
これはより具体的なことなので実現されても良いと思うのですが、
課題曲の中に古典派の作曲家が1人も入っていないことに違和感を感じる方はいないのかな?と思いました。
何曲か、素晴らしいシューベルトの歌を拝聴することが出来、澄んだ気持ちになりました。
ですが、ベートーヴェンやモーツァルト、
バロックの作曲家の歌だって歌曲部門で聴かれても良いと思うのです。
で、そういった指針を優しく示すのが「課題曲」だと思うのですが、
あの日本で1番大きいと謳われている日本音楽コンクールがこの指針であれば、声楽界全体がロマン派〜後期ロマン派に傾きすぎるのも不思議ではない、という印象を持ちます。
日本人の平均の体格、骨格的には、
後期ロマン派(特に墺独露の曲)は要求度が高過ぎる、
でもコンクールでは無理をしてでも歌わないといけない、
そんな見えざるプレッシャーが、歌手の声を少しずつ蝕んでいきます。
コンペティターが各々の声に合った歌を歌うためにはまず、
コンクールの指針(=課題曲)が、より広い観点を持つことが必要と思われます。
これだけグローバルな時代なのだから、
海外の声楽家の方(海外で活躍される邦人含む)が審査員の中に複数名入っている、ガラパゴス化防止のためにそれは常識的であるべきと感じていますが、
そんなスタンダードに早く移行されると良いなと思います。
羽田空港に到着するやいなや、
日本音楽コンクール声楽部門の会場へと向かいました。
一次予選を通過した21人のコンペティターによる二次予選です。
11時の開始から15時頃まで、しっかり全員の方のお歌を拝聴しました。
今年は歌曲部門ということで、日本歌曲は言うまでもなく、
ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語、ロシア語と幅広いレパートリーが聴かれました。
まず、通過され本選へ進むこととなった7人の方々に、お祝いを申し上げたいと思います。
21人の方それぞれの歌に、それぞれのここまでのドラマがあり、別々の場所で努力を重ねてきてこの舞台に立っているのだと感じると、
競技会とはいえ、否、競技会ゆえの緊張感と感動がともなうものだなと思います。
結果がどうであれ、その日のその瞬間のためにベストを尽くす、果敢に挑戦し、言い訳をすることなく最後の瞬間まで出し尽くせる人には、
必ず新しい自分自身が待っています。
言い訳をせずにベストを尽くせる、というのはひとつの立派な才能なんです。
年を重ねれば重ねるほど、できなくなってきます。
「選曲が悪かったし」「仕事が忙しい中での挑戦だった」「前後の出場歌手との噛み合わせが悪かったし」
大切なことは、
その日が終わる時、
ベストを尽くしたと胸を張って言える自分が居るか?
そのプライドを持てたのであれば、それこそが最も偉大な勲章となるでしょう。
そして、明日の自分への大きな糧となることでしょう。
私もいちプレイヤーとして勇気をもらいました。
エネルギーを分けてもらいました。
本当にありがとうございました。
その上で、
拝聴しながらいくつか感じたことがあり、
選考結果と照らし合わせて、私なりに感じたことを皆様とシェアし、考えたいと思い、
記事を書くに至りました。
まず残念だったのは、
二次予選の時点でひとりもテノールが居なかったことです。
そもそもテノールの出場者が少なかったのはあると思いますが、
それにしても、アンバランスな選出と感じました。
本選出場の方々の声種のバランスも、聴衆の方の気持ちを考えると、どう考えても「気持ちがいいほど完璧」、ではありません。
せっかくオペラ部門と分けての歌曲部門なのに、各年の特徴付けが曖昧な印象を拭えませんでした。
本選出場の方の中にも色々な強みを持っておられる方がいらっしゃいますが、
私の印象だと、
言葉のエスプリのひとつひとつを大事にする歌手の割合が、あまりにも少な過ぎます。
「たまにエスプリ」ではだめなんです。
すべて、取り逃がしていけないのです。
そういう執念を、己への厳しさを秘めた歌手が、二次予選で何人かの歌手の歌の中に聴かれて、私は胸を打たれたのですが、
そういった方のひとりも残されなかったのは、正直ショックでした。
私が私のものさしで物事を見ていることは承知しています。
でも私にはドイツでの私なりの失敗と成功の積み重ねの経験があり、私の信念は、私自身の努力で今後も磨きこそすれど、そう易々と揺らぐものではありません。
理想を頑なに追い求め、己の声に問い続ける歌手の威厳を、私はヨーロッパの現場で見てきました。
そういった方々は、結局コンクールのたかがもう一ラウンド進まなかった所で、
ご自身の課題はご自身で1番解釈できる方々だと思います。
昨日の自分を今日ははるかに越えて、3年後、5年後、10年後と、物凄いスピードで成長できる方々です。(結局長い目で見てそれが1番重要だと思うのですが)
ただ、昨日の選考結果からは、そういった観点をあまり感じることができず、少しショックでした。
そしてもう一つ、
これはより具体的なことなので実現されても良いと思うのですが、
課題曲の中に古典派の作曲家が1人も入っていないことに違和感を感じる方はいないのかな?と思いました。
何曲か、素晴らしいシューベルトの歌を拝聴することが出来、澄んだ気持ちになりました。
ですが、ベートーヴェンやモーツァルト、
バロックの作曲家の歌だって歌曲部門で聴かれても良いと思うのです。
で、そういった指針を優しく示すのが「課題曲」だと思うのですが、
あの日本で1番大きいと謳われている日本音楽コンクールがこの指針であれば、声楽界全体がロマン派〜後期ロマン派に傾きすぎるのも不思議ではない、という印象を持ちます。
日本人の平均の体格、骨格的には、
後期ロマン派(特に墺独露の曲)は要求度が高過ぎる、
でもコンクールでは無理をしてでも歌わないといけない、
そんな見えざるプレッシャーが、歌手の声を少しずつ蝕んでいきます。
コンペティターが各々の声に合った歌を歌うためにはまず、
コンクールの指針(=課題曲)が、より広い観点を持つことが必要と思われます。
これだけグローバルな時代なのだから、
海外の声楽家の方(海外で活躍される邦人含む)が審査員の中に複数名入っている、ガラパゴス化防止のためにそれは常識的であるべきと感じていますが、
そんなスタンダードに早く移行されると良いなと思います。