僕は覚醒剤取締法違反で逮捕された、元教員です。
塾で嬉しいことがあったので素直に書きかけていたのですが、やめました。
なんでも言えるほどまで、まだ時間が経っていません。
そのことを一瞬忘れるほどまで、日々は充実し、
前向きに毎日を送ることができるようになってきたのかもしれません。
離れていった人は、僕のことなんて記憶から消えてしまったのかな?
もう一生会えない人の中には、俺のこと最低人間だと思っている人もいるだろうし、裏切られたと腹を立てている人もいるかもしれません。
ただ、過去は取り戻せない。
やり直せない。
だから、今できることをやればいいし、
できる範囲で絶えていないつながりを持ち続けてくれる人に返していけばいい。
人々は偏見に満ちています。
もちろん僕も。
初めて会う人の容姿容貌が特異だったら。街中で奇声をあげているおじさんを見かけたら。
…自分とは異なるものに「危険」を感じて身を守ろうとするのは野生の名残りなのでしょうか。
関わってみないと実態はわからないのにね。
だけど、「薬物依存症」と聞いたら、
この人はいきなり暴れ出すのではないか?とか、
ガラの悪い世界の人間なのではないか?とか、
頭のいかれた無責任なやつなのではないか?とかいう偏見をもたれると思います。
それは、なぜか?
やっぱり薬物依存症者というものが、自分とは異質な存在だと思われているからではないでしょうか。
同性愛者と聞くと、最近でこそ社会で寛容に受けとめるべきだというメディアの情報操作が感じられるけど、
個々人でみれば偏見をもつ人は多いと思います。
男同士で手を繋いだりキスしたり…
もし自分に小さな息子や娘がいたらあまり堂々と見せたいものではないです。
当事者の僕ですら…
多様性の社会を生き抜くには、異質なものに無関心でないと乗りきれないし、同調圧力に屈しない強さも必要だと思います。
そういう視点で考えると、なんでも「認めていこう、受け入れていこう」という姿勢は、自己を追いつめることにつながる気もします。
その部分は、現代社会の生きづらさであるかもしれません。
僕たちは、知らない間に差別をしています。
「普通」を求めているからです。
でも、自分が過ちを犯した時、
家族が過ちを犯した時、
きっと世間からの偏見に晒されることになるでしょう。
過去はずっと付いてまわります。
ネット社会では、自分の見知らぬ人にまでその情報が否応なく吹きこまれる。
本当に生きづらい社会です。
でも、自分自身の責任を果たすために僕ができること。
それは、日々を一生懸命生きること。
これは「常に全力」という意味ではなく、時には自分をいたわり、時には自分を律し、時には落ち込むことがあってももう一度立ち上がる…
それを繰り返すこと。
だから、今日も頑張る。できる範囲で。