僕は覚醒剤取締法違反で逮捕された、元教員です。









僕は以前も書いたことがありますが、心のどこかに教員という職業への未練があります。


もう今は、小学校・中学校・高校・特別支援学校と4種もっていた教員免許は取り上げられてしまいましたが、

だけどやっぱり子どもの成長に携わりたいという思いは、まだあります。








日本は一度失敗した人間に対して、とても厳しい国です。

法治国家だからこそ、安全が守られているのでしょう。


だけど、一度薬物で捕まり、実名報道された人間にとって、社会での再スタートは困難をきわめます。








いくら人口減少の人材不足の時代とはいえ、採用側にとってみれば選ぶ権利があります。


ネットで名前を検索して、その人が起こした時間が明らかになると、やっぱり関わりたくない…と思ってしまうでしょう。


信頼できない人、というレッテルを張られてしまうでしょう。










世の中、失敗にはそんなに寛容ではないのです。


薬物使用で逮捕された当事者の自己弁護にすぎないかもしれませんが、

それでも僕は犯罪にいたった人には自分の気持ちの持って行き場がどこにもなかった…と思わざるをえないのです。








これは薬物犯罪だけでなく、窃盗も傷害事件もそうでしょう。


ただ、そこには被害者がいてその人たちの心の傷を考えると、加害者を正当化するわけにはいきません。










難しい問題ではありますが、毎日こんなにもたくさんの犯罪が起こることは、

人々の心が貧しいからだと思います。


日本は、戦後めざましい発展の中で、どんどんつながりというものを排除していったように思います。










特にコロナ禍以降はそれが顕著で、相手に会わなくてもミーティングができるし、大学の講義さえ受けられる…

遠隔で何でも管理できる…


便利な世の中には、忘れ去られているものがたくさんあるように思います。










変わらないことといえば、

おいしいものを食べたら幸せ、

よく眠れたら幸せ、

帰る家があれば幸せ…


そんなところでしょうか?









世の中健康に代えられるものは何もありません。


それは、人々の手で生み出せるものではなく、

技術が発達した現在でも解決できる問題ではありません。









僕はやはり、自分自身が満たされない思いを抱える一人として、一生の中で困っている人に寄り添い、その人の役に立ったという感覚が得られるような生活をしていきたい。


これは、逮捕されたからとか薬物依存症だからとか関係ない。









人は古来、群れで生活する生き物だった。


群れでいたほうが安全だし、多様な意見が出てくることで自分たちの身を外敵や災害から守ろうとしてきたのだろう。


食糧難のときは、少しずつ分け合って、「お互い様」という精神をもっていたはずだ。









僕は今、目の前の利用者さんや塾生に対して、微力ながらできることがある。


それが自己満足につながっているかといえば、日々首を縦に振ることはできない。


だけど、自分にできることはもっと他にもあるはずだ…

その思いはいつも持っている。









思い立ったが吉日、とはよくいうが、

なかなか一歩は踏み出せない。


生きていくにはしがらみがたくさん存在するからだ。








だけど、一瞬でもそれを見えていないふりをして、

勢いよく行動することも大切かと思う。


一歩も踏み出さずにあーだこーだ、と過去の失敗を並べ立てたところで何も生み出さないからだ。


それほどみっともないことなんてない。









だから、負けていてはいけない。


新たな行動が起こせるように今のうちから準備をしておこう。








だって、自分のための人生なのだから。









今朝は、妙にイライラしている。


書き綴ったことも、見返すと少しアグレッシブだ。


医者曰く、双極性障がいではないらしい。









ブレーキは故障していない…よね。