大きい方は「17 水の菩薩」


この世に執着ほど

心を苦しめるものはないでしょう。


執着を愛と勘違いしようものなら

相手もまた地獄です。


よどみなく流れるものを

執着というエゴで堰き止めてはいけません。


小さい方は「7 水の菩薩」さま。


水は全ての記憶と繋がっています。


あなたの人生は

決して平坦ではなかったでしょう。


しかし

苦しみの中から芽生えた慈悲の心が

他者の痛みを我が身とする

崇高な意識をあなたにもたらせました。


すでにあなたは

観音の力を得て、人を癒し、助けています。


2つ合わせると


ものへの執着、ひとへの執着、若さへの執着、

色々ありますが、捨てれば楽になるのが執着です。


ものも空間も、人間関係も。

惰性や見栄で集めて来たものを思い切って手放すのです。溜め込んできた思い込みも。


いっさいの囚われがなければ

いかなるものにもおさまって満ち満ちている。


おお、自由なり。


観ているだけです。

観ている私を観ている私。


私はいつも合わせ鏡の中にいます。

それは希望にも絶望にも似ています。


観るとはそういうことです。


全ての執着から離れてただ「或る」存在でいましょう。沢山の苦しみ悲しみを乗り越えて、他者の痛みを我が身と感じる崇高な意識になったので、「観ているだけ」が出来るようになりました。という事でしょうか?今日は、2枚とも「水の菩薩」さまです。水のように一切の囚われなく自由でいなさいということのようです。深く理解して察することが出来ると、相手に自分の気持ちを押し付けたり、コントロールしたりする事が無くなり、嬉しそうで楽しそうであればそれでいいととても広い優しい気持ちになれるようです。自分がそこに関わらなくても、穏やかに安らかに幸せそうであればそれでいい。それこそが「大調和」なのでしょうか。誰1人かける事なく、それぞれが自分を大切なように相手を大切に思う、そんな優しい関係になれたら幸せですね。