世界で初めて飛行機を作ったのは誰でしょう? | 『粋なオトナになりやしょう』

『粋なオトナになりやしょう』

私、『旅んちゅ・しんちゃん』が
粋なオトナになるための情報や
旅での気付きや学びをお贈り致します。

さて、問題です。
「世界で初めて飛行機を作ったのは誰でしょう?」



実はこの質問、答えが難しいです。


飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功したのは「ライト兄弟」です。
1903年12月17日のことでした。


でも、実はその12年前の1891年に動力飛行機での飛行実験を成功させた方がいます。
それが、日本人である
「二宮 忠八 ( にのみや ちゅうはち )」
です。

今日は、「二宮忠八」をご紹介しますね。

忠八は1887年に香川県の丸亀第12連隊の看護卒(衛生兵)として陸軍に入隊しました。

1889年11月に香川県西部の山岳地帯で実施された秋季機動演習の帰途、
樅の木峠と呼ばれる場所で休息をとっていた忠八は、
仲間の兵士が捨てた携帯食を目当てに集まってくるカラスの群れを眺めているうち、
ただ風に乗って空を舞うだけの凧ではなく、
自在に大空を飛行できる乗り物をつくろうと思い立ちました。

その日以来、忠八は夢の実現に向けて昼夜を問わず研究に没頭しました。

鳥類の体型を詳細に調べて、鳥や昆虫、トビウオの飛行原理を分析するのみならず、
天女や天狗、児雷也など「空を飛ぶ」ことに少しでも関連するものは全て忠八の研究対象になっていました。

そして、忠八の研究成果 が形となって実を結ぶ時がやってきました。

1891年4月29日の夕刻、
丸亀練兵場の広場で、忠八の自作飛行器『カラス型飛行器』の飛行実験が行われました。

この「飛行器」は、船のスクリューにヒントを得て作られた4枚羽根のプロペラを、医療用聴診器のゴム管を使って回転させる、ゴム動力の模型飛行機でした。

人間こそ搭乗してはいないが、この実験が成功した暁には、むろん有人飛行に向けた大型飛行器の製作に着手するつもりでした。

忠八をはじめ多くの人々が見守る中、ゴム動力の飛行器はゆるゆると機体を震わせながら大地を離れ、大空へと舞い上がりました。

結局、『カラス型飛行器』は10メートルほど飛行したところで草むらへと着地しました。

忠八は実験の成功に喜びながら何度も飛行器を飛ばし、日没までに30メートル近い飛行距離を記録したのでした。

忠八は、『カラス型飛行器』の実験成功に自信をつけ、さらに研究を重ねて有人飛行機の設計作業を着々と進めていきました。

鳥の体型にヒントを得た『カラス型』を発展させたのでは、人間の体重を支えきれないと知った忠八は、四枚羽根の昆虫の飛行形態を研究しました。

そして、1893年10月5日、荷重にも耐えうる新たな機体を開発することに成功しました。
これが『玉虫型飛行器』です。
ライト兄弟の実験成功の10年前も前のことです。


忠八は、この設計を今すぐにでも実用化して機体の製作に取りかかりたいと思いました。

ところが、一兵士の身分では資材を購入するための多額の資金をまかない切れるはずもありません。
当時、石油式発動機(ガソリンエンジン)は、あまりに高価なものだったのです。

忠八は意を決して上官である軍医に頼み、当時の日本陸軍参謀長・長岡外史大佐に『玉虫型飛行器』の設計図と飛行器実用化の上申書を提出しました。

「人間が空を飛べるわけがない」
忠八の画期的な発明は、軍上層部の関心を惹くこともなく、上申書は却下されました。
忠八は別の将軍を通じて再度上申を試みたが、結果は同じでした。

翌年には日清戦争なるくらい日本は緊迫した状況でしたから、忠八の夢物語に軍事費をまわす程余裕はなかったのです。

忠八は、自力で資金を蓄えるべく軍を離れ、大日本製薬に入社。
必至で働き、夢の実現に向けて一歩一歩前進していきました。



だが、運命の女神は忠八には微笑みませんでした。

1903年12月17日、
アメリカ合衆国ノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルズで、
ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が、自作の飛行機で大空を飛翔したのです。

この知らせを聞いた忠八は、男泣きに泣いたそうです。
(実際はライト兄弟の有人飛行成功が日本に知れ渡ったのは1907年ごろと考えられています。)

彼は『玉虫型飛行器』の設計を含む、全ての計画をあきらめ、飛行器の話題を避けるようになりました。



1919年、忠八が53歳の時、たまたま同じ愛媛県出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会がありました。

このとき、ふとしたはずみに、忘れようとしても忘れられない若き日の陸軍時代の飛行器製造の話で会話が盛り上がりました。

忠八の言葉に感心を抱いた白川義則は、実際にその上申があったのか、そして忠八の上申内容が技術的に正しいかを専門家に検証を命じました。

それは、専門家が驚嘆するほど、正しいものでした。
ライト兄弟よりもはるか以前に、日本では動力飛行機の設計図が完成していたのです。

忠八の功績は、白川義則将軍の働きかけにより1922年に表彰され、「天才的発案」として再評価されました。
この事を知った長岡外史大佐は、後に忠八のもとを訪れ、上申書を却下した非礼謝罪しています。


晩年、忠八は飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立し、自ら神主になりました。
そこで生涯、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に一生をそそぎました。

1964年にはイギリス王室航空協会で玉虫型模型飛行器が展示され、二宮は「ライト兄弟よりも先に、空を飛ぶための原理を発見した人物」と紹介されています。



今でも二宮の出身地・愛媛県八幡浜市では、飛行実験に成功した4月29日に「二宮忠八翁飛行記念大会」が開かれています。

ちなみに、
平成3年10月。有志により、忠八の当時の設計通りに実機が作られました。
この飛行機は見事故郷の八幡浜市の空を舞ったそうです。


歴史にたらればはありません。
でも、もし忠八の上申書が認可されていたなら、
と考えると、
同じ日本人として熱い想いが込み上げてきますね。

人類史に新たな道を切り開いた者として偉人伝の表紙に記された名は「ライト兄弟」ではなく、二宮忠八だったのかもしれないのですから。

ちなみに、「飛行器」とは忠八本人の命名によるそうです。