チャップリンの秘書は日本人だったってご存知でした? | 『粋なオトナになりやしょう』

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チャールズ・チャップリンの秘書は日本人だったってご存知でした?

今日は、
高野 虎市(こうの とらいち)をご紹介しますね。

高野は、「喜劇王」と呼ばれたチャールズ・チャップリン(1889~1977)の秘書を18年間も務めました。
1900年に日本(広島県)から移民として渡米していた高野は、1916(大正5)年に運転手を募集していたチャールズに採用されました。
高野は運転だけでなく、経理や秘書など様々な役割を器用にこなしました。

チャールズは自身の著書『チャーリー・チャップリン世界漫遊記』に、

「高野は何でもする。看護夫、乳母、侍者、秘書、護衛、何でもだ。
彼は日本人で、私のためには何でも屋だった」

と記しています。

チャールズは、ラフカディオ・ハーンの『怪談』によって日本に興味を持っていましたが、
熱心に働く高野に出会ったことで、ますます親日家となっていきました。

高野の働きぶりに感激したチャールズは、使用人を次々と日本人に変え、最も多い時は17人の使用人すべてが日本人だったそうです。

高野はチャールズの遺書の中で相続人の一人に選ばれるほど絶大な信頼を得ました。
高野はチャールズから撮影所内に5つの寝室つきの邸宅までプレゼントされたほどでした。
高野に長男が誕生すると、チャールズは自ら名付けの親となって、
チャールズのミドルネーム「スペンサー」を与えて、
高野スペンサーと命名するほど、高野に親しみを感じていました。

やがて高野は「撮影所の支配人」とまで呼ばれる存在になりました。


高野は、1916年から1934年までの18年間、チャールズを公私ともに支え続けました。

この間、チャールズは『犬の生活』、『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』、『街の灯』などの傑作を生み出しました。
高野は『チャップリンの冒険』(1917年)で、運転手役で出演もしています。


チャールズは生涯で4回来日しましたが、1932(昭和7)年に来日した時、日本訪問をしたきっかけについて、次のように答えています。

「日本人はみんな親切で正直だ。
何をやるにつけ、信用ができる。
そのため自然と日本人が好きになった。
こんな人たちを作り出している日本という国は、一体どんな国だろう?
一度行ってみたいものだと思い始めた」

チャールズ・チャップリンは日本で大歓迎を受けました。
ところが、翌日に五・一五事件(犬養毅首相が海軍の青年将校に暗殺された事件)が起きました。

実はこのとき、「世界的に有名なチャップリンを殺せば、アメリカと戦争できる」
と考えた青年将校によって、チャップリン暗殺計画も練られていたのです。

チャールズの訪日の前に日本へ渡った高野は、
「最近の日本は物騒」
「来日したら東京でまず宮城(皇居)に行くように」等、
元陸軍少将の作家・櫻井忠温から指示を得て、
チャールズが無事に日本を見学できるよう、スケジュールを綿密に立てていました。

神戸港に着いたチャールズは、京都や大阪をとばして東京に直行。
その夜、車に乗ってホテルへ行く前に、皇居前に立ち寄りました。

高野は「車から降りて皇居を拝んでください」とチャールズにお願しました。
チャールズは腑に落ちないながらも、車から降りて皇居に向かって一礼をしました。

この「一礼」は当時、新聞などで大きく報じられたので、チャールズの命を狙う者たちの心証を良くした可能性があるようです。
高野はチャールズの命を守るために機転を利かせて、皇居前で一礼をさせたのでした。

日米親善のために5月15日に犬養首相とチャールズの会談が予定されていました。

ところが、チャールズが「相撲が見たい」と言い出して会談をキャンセルしたため、チャールズは暗殺の難を逃れたそうです。

日本滞在中、日本の伝統文化に興味のあったチャールズは、歌舞伎や鵜飼、相撲を鑑賞しました。

銀座の「花長」では、いたく天ぷらが気に入って、海老の天ぷらを36本も食べたそうです。
「花長」で修行した調理師が乗船しているという理由で、帰りの船を氷川丸に決めたほど、天ぷらが大好きになりました。

後日、彼は

「日本のように美しい国はない。
鵜飼というのは何だか知っていますか。
あんな素晴らしいものは、世界中どこに行ったってありません。
それにあの天ぷらのうまさ!
日本はなんでも素晴らしい。
あの歌舞伎の美しさ。
あれだけの広い舞台を使いこなせるのは日本だけです。
あんな素晴らしい国はない」

と妻に語っています。

また、チャールズが使った有名なステッキも日本製でした。
彼はしなりの良い滋賀県産のステッキが気に入り、生涯、日本から取り寄せていたとのことです。



1934(昭和9)年、高野はチャールズに解雇され、彼の元を去りました。

チャールズの妻、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』等に出演した女優)の浪費癖を高野が注意したことが原因といわれています。

高野を解雇したことを後悔したチャールズは、
その後何度か高野のところを訪れて、
戻ってきてほしそうな様子を見せたが、
高野が彼の元に戻ることはありませんでした。

その後、日本(広島県)へ帰国した高野は、1971(昭和46)年に86歳で死去しました。


高野の訃報を聞いたチャールズの衝撃を、チャールズの娘、ジョゼフィン・チャップリンはこう語っています。

「父(チャールズ)は晩年まで彼(高野)のことを忘れていませんでした。
彼が亡くなったと聞いて、父は悲しみにくれていました。
父の親友でしたからね。
いつも傍らにいてくれたとてもいい友人が、ある日突然、別世界へ行ってしまった。
そんな感じだったようです」


世界で活躍する日本人はたくさんいますが、
こういった陰の立役者的な活躍も日本人らしくて好きです。

高野 虎市。
誇るべき粋なオトナですよね。