以前から私の心にひっかかっていたは、

子どもの頃の記憶がほとんどないということです。


でもずっと「私って、忘れっぽいからなーべーっだ!デヘ」とノンキに

済ませていました。


だけど時折、ソーダ水の泡のように「なんでだろ?」と心の中に浮かび上がってきて、そのたびに「イヤイヤ、些細な事じゃ~ん!」と打ち消していました。


そのうち心理学の勉強の初期の頃、

「思考」と「感情」の違いを学びました。


は?それって違うん?!?あせる


と驚いたことを覚えています。


私 「え?私、いっぱい感じてますけど?ほらこの椅子、冷たいとか」


先生 「それは思考です」


私 「今日は寒いですよねー雪が降りそう!(←感情こめたつもり)」


先生 「それも思考」


私 「………(汗)」


ワッケわからん…と当時の私は思いました(笑)。


心理学を学んでわかったことは、

本物の感情は「喜び」「悲しみ」「怒り」「恐れ」の4つです。

この感情は人が生きていくうえで、重要なものなのです。

それ以外のものは、ラケット感情といい、偽物の感情と言われています。

(Racket=不正な)


また、「記憶は感情とともに刻まれる」とも。


ならば私は感情がなかったってこと?

え?友達もいるし、楽しく生きてきたつもりだけど…


でも…

うーん、そう考えると……思い当たる節があせる

私は父を10歳の頃に肺ガンで亡くしましたが、

父がどんな人だったかも覚えていません。

どんな話をしてもらったのか、抱っこしてもらったのかさえ…。


でもそのことに悲しみや哀愁を感じたこともありません。

だって私の辞書の中には、「お父さん」という言葉がないから。


それは父が亡くなったからという単純なことではなく、
父のことをくちにすることも、考えてみることすらなかったのです。

友人がお父さんといても、羨ましくもなんとも感じませんでした。
だって、お父さんってなぁに?でしたから(苦笑)。

ヒプノセラピーを通して分かったことは、
「私が父のことを言うと、母が困る(悲しく思う)かもしれないから言うまい」
ということでした。

(交流分析ではこれを"幼児決断"といいます)


また、母自身も父のことを語ることがなかったようなので、

(てか私が覚えてないだけかもしれんが)
私の中ではそれはパンドラの箱のように封印されていました。

パンドラの箱は開けなければ「希望」は出てきません。

こうやって自分自身をひもといていくことで

希望という自己開放への道がある、そう思っているのです。