人間は、他力本願でいいー

人間は、最終的には自立出来ないのではないだろうか?

なぜなら、人間は自分の意思でこの世に生まれてきたのではないからであり、自分では、自分の出生理由を知らないからであり、根本的に人間は被造物であるからです。


 つまり、自分以外の何かにすがる、依存する、頼るということが極めて重要であり、精神的に存在的に自主独立するという意思とのバランスにおいて、いわゆる少なくとも51%対49%の割合で、他力本願的に何かに頼るということの方が優先されなければならないのではないだろうか? いわゆるごく平凡で健全で余裕のある生活をしている分には、この比率はさして重要ではありませんが、しかし、精神的な極限状況に陥ると、この比率を間違えると、私の経験として、自分を見失うような危険な状態に陥ります。


 つまり、本当に、全幅の信頼で頼れるものを持つということが、健全な精神を維持する上において極めて重要です。それは、自然であったり、家庭であったり、社会の良識であったりするわけですが、総じてそれは、自分が精神的肉体的に居住する生活空間全体のイメージではないでしょうか? そこに全幅の信頼で、自分を放置し解き放つことが出来るゆとりがなければなりません。

その上で、49%の自立する能力も身につけなければならないことは言うまでもありませんがー

 おそらく、この宇宙と人間存在の理由、つまり「この世は何故存在するのか?」「人間は何故存在するのか?」という理由の、哲学的真実は、宇宙の起源のビックバンの瞬間にあるのではないでしょうか? つまりそこでは、哲学者ハイデッカーが提唱した、永遠の哲学的命題の「なぜこの世は一般的に存在であって無ではないのか?」という理由の、哲学的にして物理学的なメカニズムがビックバンの瞬間に働いていたのではないだろうか?


 つまり、一つの可能性として、この世はいっそのこと、全く存在しないということもありえたのに、何故現状は「存在」になっているのか?ということです。つまり、どうしても、無ではありえない、神学的、心理学的、物理学的メカニズムの理由が、そのビックバンの瞬間に働いて、全宇宙的な大爆発となったのではないだろうか?


 そして、その瞬間の状態は、おそらく、もっとも単純な合と反、つまり、+と-の単純な緊張の世界であったのではないでしょうか? もし、この単純な緊張を放置しておくならば、加速度的な大爆発が無限に拡大する狂気の世界となってしまうでしょう。その狂気の大爆発の加速度的緊張の世界を自然自らが修正するために、ビックバンが生じてすぐに、中性子などが生じて自らその狂気的大爆発の連続を修正したのではないでしょうか?  その後、さらに幾つかの物質や特異な力が生じて、この緊張を調和の方向へと、まさに、弁証法的に進化させてきたのではないでしょうか?


 そして、人間も、話は大分飛躍するわけですが、この宇宙の矛盾や緊張の弁証法的進化による調和と統合の担い手として、神によって造られたのではないでしょうか?  たとえば、人間は、なぜ自分の出生の理由、存在理由を知らされていないのでしょうか? 思うに、人間は、第一義的な宇宙の発生や構造にたいして、完全に第三者的調整者としての使命を与えらたが為に、その第一義的な出生理由に対しても、完全に異次元の第三者として、もって言えば完全な弁証法的止揚者として、自分の出生の理由さえも知らないものとしての、第一義的な存在に対して、完全な第三者としての立場を与えられたのではないでしょうか?


 つまり、この人間社会や、あるいは地球の自然界にある様々な矛盾は、まさに、ビックバン時の緊張的矛盾の延長の産物そのものであり、それが、最終的に人間の手、あるいは、もっと汎宇宙的には、知的高等生物によって、最終的に調和と統合がされることによって、ビックバン時の緊張と矛盾、あるいはビックバン時の発生理由は、達成かつ終息するのではないだろうか?


その意味で、まさに、人間は神に依存し、神もまた、人間という知的高等生物によって、様々な矛盾が統合調和されることを願っているのであり、その意味で、神もまた人間に依存しているのではないだろうか?


現実社会の様々な矛盾、たとえば、人工爆発と少子化というパラドックス、あるいは、貧富の差、経済成長と地球温暖化、あるいは同性愛、様々な動植物の絶滅など、神が自然界の遺伝子に、その問題解決をいまだインプットしていないような状況を、人間が手をつけなければならない状況下で、いかにその使命をまっとうするか こそが、ビックバンから始まった宇宙の、人間存在の理由ではないだろうか?  果たしてー



 健康に関する諸説には、時として、全く相反する考え方が、公然と並存する場合があります。たとえば、牛乳です。牛乳は、カルシウムを含んでいて、骨によいとする説と、それと、全く逆の説で、牛乳は人間の骨を破壊するという説があります。果たして、これは、どちらの説が正しいのでしょうか? 私も、いまだによく分かりません。ただ、最近のニュースとして、牛乳が骨に良くないという考え方が、一部言われるために、牛乳の消費量が減少したということも聞きました。


 しかし、一方で、乳製品であるチーズやヨーグルトは、ほとんど主食くらいに利用している国もあるわけで、本当に骨に悪いものであるならば、そのような食生活が持続されてこなかったのではないかということも言えます。また、一方で自然治癒力を高める書籍の中には、乳製品は、いっさい摂らないほうが良いとまで言い切っている書籍もあるという状態です。


 卵についても、同じようなことが言えます。健康について、シビアに自分を管理するためには、これらの食品について最終的にはあらゆる情報の中から、そして、自分の食生活の中での実際に現れる体からの反応と結果をみながら判断するしかないのかもしれません。今の所ー いずれにしても、それらの食品は大きな産業となっている現状では、研究機関や学者先生方も、軽々

には結論を出せないという状況もあるかもしれません。

 まず、私の特技が「身の程をわきまえぬはったりを言う」ことであることを明記した上で、又、暴言を述べてみたいと思います。

それは、表題のように、「対核通常兵器以外完全無抵抗主義国家」という概念です。


 北朝鮮の核実験を機に、政府の閣僚らから、日本も核武装について、非核三原則は堅持するものの、論議位はしてもよいのではないかという意見が出ています。しかし、これは全くナンセンスではないでしょうか? なぜなら、技術的かつ防衛論的に正当性があろうとも、環境的かつ国際状況的に、全く実行出来る可能性は、限りなく0に近いのではなく、完全100% 0だからです。

全く、実行の可能性のないことを、議論に乗せること自体が、何の意味も持たないからです。


 なぜ、実行する可能性が100%0なのでしょうか?

私が考えるに、その理由は、次の三つくらいです。

1. 一旦核兵器を持ち、それが、核抑止力としての実際の効力を持つ兵器のレペルを維持するためには、一度や数回の核実験では、そのレベルを維持することは出来ず、素人が考えても、十数回とか、数十回の核実験が不可欠です。北朝鮮のような、あるいは、アメリカ、ロシア、インド、といった国のように、専制国家や、広い国家ならともかく、この狭い日本のどこで、その近隣の住民の同意を得て、どこで出来るというのでしょうか? 十数回の核実験をー 原子力船が港に寄港したり、プルトニュームの再生施設の建設でさえ、住民の反発をえているものがーです。

2. 平和憲法と非核三原則を堅持してきた日本が、核武装することの正当性をアジアの近隣諸国に認められたとすれば、その時は、この平和憲法を掲げてきた日本でさえ核武装するというのですから、アジアのすべての国家が皆核武装を認め合うという状況になるでしょう。それは、核拡散防止条約などの主旨に、真っ向から逆行することになり、地獄絵そのものとなります。そんな状況をお互いが認め合うことなど、市民レペルの感覚としてありえないのです。もし、それをあえて国家がやろうとすれば、その時は、国家を無視した、国境を越えた市民レベルの国家、あるいは、近隣諸国市民レベル共同体が、インターネットのブログなどを駆使して誕生する可能性さえあります。

3. 一旦核武装し、しかも、お互いが同じ位のレベルの兵器をもつことで、核兵器の均衡バランスで平和を維持しようとすれば、当然、お互いが競争することになり、特に、後進国、特に北朝鮮などは、膨大な予算を投入せざるを得なくなり、その国の経済的な状況は、ますますひどくなり、ますます緊張が高まります。


 素人が考えても、数十分でこのようなことが思い浮かぶのであり、このような状況の中では、日本が核武装することなど、全く 許される状況ではないのです。議論する意味もないほどです。切迫した現代の地球と国際状況は、すでに、抜け道の見えないパンドラの箱に突入しているのではないでしょうか?


つまり、このような状況でもあえて、日本が核武装しても、それは、ほんの慰み物になるにすぎず、新たな収拾のつかない緊張がうまれ、核武装した意味など、すぐにどこかに吹っ飛んでしまうような結果になるのでないでしょうか?

ならば、そのような意味のない核武装論など100%放棄し、むしろ、どうせ核武装しても収拾のつかないパンドラの箱にはいり、結果として核武装しないことをうわまわるメリットが何もないとするならば、いっそのこと、「対核通常兵器以外完全無抵抗主義国家」であることを、現時点で宣言するという手はどうでしょうか?


 もちろん、単なるこれははったりではなく、国民は、核によって攻撃されても、通常兵器以外いっさい反撃しないことを覚悟しなければなりません。極めて高度な人格的にー しかし、核武装しても同じ結果なのですからー

もし、「対核通常兵器以外完全無抵抗主義国家」であることを宣言している国を核攻撃した国はどうなるでしょう?

言うまでもなく、国際社会の中では、生きていくことはできず、その国家自体の中で、この核戦争を実行した政治家や政治組織は、粛清されざるを得ないでしょう。つまり、それこそ、核に対する最大の抑止力ではないでしょうか?



 共産国も含めて、全地球規模でみれば、地球規模では、あきらかな自由経済社会であるわけです。共産国も、全地球規模では、全く自由にその経済的競争をし、自国の利益を追求しているわけです。そもそも、自由主義経済とは、畢竟バブルではないでしょうか。私は、若い頃、某企業の労働組合の執行委員を務め、会社側と賃金交渉の、いわゆる「団交」(団体交渉)の経験がありますが、その席上、賃金がどのような形で妥結するかの、いわゆる賃金の妥結ポイントの哲学的考察をしたことがあります。


 つまり、そこでは、経営者側と労働者側との主張の妥結ポイントがどのように定まるかーというテーゼがあるわけです。これはある意味、一つの典型的な階級闘争であるわけですが、つまるところ、両者の主張の寄って立つ根拠の論理的正当性が、両者とも相手の言い分で納得しあえるということは、ほとんどありません。一つは、原則的な現状認識の個人差がありますし、一つは、将来的な予測や見込みという不確定要素での立場の相違による根本的な見方の違いというものもあります。つまり、論理的にその経営状況や将来の見込み、利益の状況について、両者が完全に同じ経済的指数のポイントで納得しあえるということはありえないのです。その中でも、毎年、なんとか妥結しながら給料やボーナスは決定されていきます。では、具体的に、両者が納得しあえるポイントがないにもかかわらず、実際に妥結していくそのポイントとは、どのようなものでしょうか?


結論から言いますと「両者を含んだ、両者の能力の総力をわずかに上回り、そのことの限界を両者がうすうす感じる形でのギリギリ感で、はじめて相手を受け入れられるポイント」ということになります。つまり、そこまで、ぎりぎり自分も相手も追い詰めないと妥協点が見出せないということです。つまり、そこまで相手を追い込んではじめて、相手もギリギリ感があるなーという印象をもってはじめて妥協し妥結出来るという部分があるわけです。このこと、この現象を、経済学的に一般理論化すれば、即ち、「自由主義経済での、その経済活動の報酬は、つねに、経営者と労働者の総力の源資を、わずかに上回る形で定まっていく」のであり、それは、根本的にバブルではないでしょうか?


この状況は、一つの国の、国家と国民の関係としての、国政や地方の市や町の経済についても同じことが言えます。その予算規模は、そのような意味で、常に両者の現実の能力をわずか上回る形で定まっていくのであり、つまり、そのギリギリ感こそが、共産主義的な計画経済のような決定ポイントを、国家主導で計画的に定めるある意味強制的な決定権の、自由主義、民主主義社会における、競争原理の中にある決定権の代替機能と言えます。そのギリギリ感がー  つまり、両者を含めた能力のギリギリ感こそが、唯一両者が認め合える、自由主義社会での妥協点であるわけです。


 ですから、ほとんどの国家が赤字財政に陥るのであり、ほとんどの企業が、現在の能力を上回る報酬を得ているのですから、どうしても拡大拡大を繰り返すしかなくなるわけです。そして、この拡大は、どのような高度な技術や製品、あるいは、高密度の製品をもってしても、単純な空間的拡大と無縁になることは出来ません。つまり、企業が拡大拡大をどこまでも繰り返すなら、地球規模での、その経済圏の単純な物理的な空間的拡大余力というものが必須条件となるはずです。


 しかし、この両者、つまり、国家と企業のバブルの存在を可能ならしめるに、必須用件としての物理的な空間的拡大余力は、地球規模の環境汚染や資源枯渇などで、いずれ限界にきます。その破局点が、向う30年以内位に全地球規模で人類を襲うのではないでしょうか? そのもっとも危惧されるものは、

1. アメリカの双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)が決定的に破綻すること。

2.  中国の経済が、現在の高度成長を維持できずに破綻すること。

であり、そして、もっとも懸念されることは、この両者が時を同じくして起こることです。もし、この両者同時破綻がくれば、それは、人類がいまだかって経験したことのないパニックが全人類を襲い、そして経済と体制に革命的な超ダイナミズムが到来すると思われます。

 

 それは、具体的にどのような形に収まらねばならないものでしょうか?

私が考えるに、いわゆるギリギリ感で納得しあうしかないような自由主義経済でなく、また、従来型の全体主義的に近い特定の人間の恣意による計画経済でもなく、パソコン機能やインターネット機能などを最大限駆使した、だれでも正確に経済的指数を正確に認知出来る機能を人格良識的に共有出来る国家体制・経済体制による人格共産主義社会となるしかないのではないでしょうかー つまり、現状の万人の生産利益の実像を、人格的良識的に正確に分配するバブルなき新システムということになります。

おそらく、そうなるかならないかの自由はないと思われます。そこに行くしかなく、そこに行かなければ、人類はおそらく、人類社会の不調和音からくるストレスによって、生物学的に起こされる「全地球規模の暴動」によって、人類は滅亡するのではないでしょか?


その懸念される将来起こりうる全人類規模の暴動と、非常に良く似たものとしての兆候は、最近のフランスでの、車を炎上させる若者の暴動があげられます。おそらく、これと同質の暴動が全地球規模で拡大するのではないでしょうか?


 安部総理の「美しい日本」

それも分からないわけではありませんが、一国の総理が、この時期、自分の政策スローガンとしてかかげる内容としては、首を90

度ひねるような違和感がありませんかー  逆に現状認識が30年遅れているというかー


 たとえば、郵政の民営化、これは100%破綻するでしょう。つまり、人類も社会も、現状の矛盾を解決する為に、近未来において人格共産化せざるを得ないわけで、それは、完全に自由主義社会の競争原理に将来の郵政の経済的破綻を託した民営化は、将来の人格共産化と真っ向逆行するからです。それよりも、現行の郵政の国営の組織と体制の中で、どうしたら赤字を出さないようにするかという、永遠のテーマとでも言うぺきことを政策的に模索すべきであったはずです。それは、人格共産化社会のいち早い先取り的課題を実践するチャンスであったはずです。つまり、まさに、パソコンとインターネットを駆使し、郵政の経営状況の詳細の情報を、随時100%公開し、国の予算がその末端まで流れるルートをすべて開示することで、いわゆるバブルなき財政投入を、国家も国民もその実像を共有できるシステムによって、人格良識的に計画的に合意しながら運営していけば、赤字になるすべもないではありませんかー 同じ方法を、全地球規模で拡大汎用していけばいいではありませんかー



今日は、建築の解体の仕事で駒ヶ根の方に行った。


昼食の後、現場内の舗装の上に、

無造作に雨合羽を敷いて横になり、弁当箱の入ったナップサックを枕に昼寝をした。


秋独特の、斜めからの澄んだ太陽の光が暖かく心地よい。

伊那谷を感じつつ昼寝をした。


間違いなく時間が止まっている。

さわやかな風が吹き、薄い水色の空が広がっている。


私が、何十年生きてきたか?

私が、数十年後にこの世とおさらばすることも関係ない。

今、ただ、さわやかな風が吹いているだけだ!


確かに、生きているということは不思議なことだ。

しかし、疾風怒濤の人生、その不思議さにしみじみと感慨にふける暇もなかった。

ゆっくり、人を愛する暇もなかった。


私は、俺は、このまま死んでいくのか!

それでもいい。

愛? そんな言葉を茶化したままー

その悲劇も、喜劇も味わう暇もないままー

ただ、死の直前、ほんの一瞬

私は、しみじみと感じるだろうー


「すさまじい人生だったー」と。


伊那谷を感じつつ昼寝をする。

秋の、薄い水色の空の先に

月も火星も、その他の天体もあることも、うすうす感じながらー


伊那谷を感じつつ昼寝をする。

そして、間違いなく時間が止まっている。


間違いなく、私は、しばし深い眠りの中に夢遊するー

  む

       ゆ

    う

            す


                             る

 先日の記事の、自宅の近くに突然落ちた不思議な雷を、神からの霊示として受け取り、それなりの生き方の上での処置をしました。何の前ぶれもなく、超ド迫力で突然落ち、そして、わずか3~4発落ちたあと、また何の音沙汰もなかった不思議な雷ー

神の霊示のようなー


 その前の夜、私自身が、神からの霊示を受けるような何か変わったことをしたのか? と振り返ったところ、思い当たることが2つほどあり、その一つが、自身のHP「八ケ岳の微風」のトップページに(中身のページでは、勿論この書籍を紹介しているのですがー)自著の電子書籍「八ケ岳人面山の秘密」の表紙画像と、八ケ岳連峰のその人面山の近くに火星人面岩の写真をアップし、このサイトが、「八ケ岳人面山の秘密」を主題にしたサイトであることを示したことでした。その件について、そのことにどんな危険があろうとも、身命を賭して、今後とも八ケ岳の人面山と火星の人面岩との関係について、100%の空想なのか、それとも、ほんのわずかでも真実があるのか検証していくという決意をこのブログに書きました。


 しかし、なぜか、その次の日から、心臓が圧迫されるような胸の苦しみが続くようになりました。これは、やはり、神からの霊示なのかと思い、すこし不安を覚えた為、とりあえず、HPのトップページからは、その2つの画像だけは消去しました。そのせいか、胸の苦しみは不思議と軽減されました。勿論、将来的には身命を賭して、その真実を検証していくわけですがー、しかし、今はまだその態勢が整っていません。つまり、もう一度全編に渡って文章を見直し、もう少し読みやすい文章に書き直してからでないと、自身のHPで、全面的にこの主題をアピールしても、態勢が整っていない状況では、最悪の場合の反響からくる影響は、実利なく弊害ばかりということではないかー  と気付きました。


 あるいは、私がそう気付く為の、神、もしくは、イギリスのミステリーサークルなどにかかわる超文明主体からの警告であったのだろうか?

勿論、このような考え方と姿勢は、超穿ったそして思い上がった見方である事は、重々承知してはいるのですがー

しかし、そもそも、八ケ岳の人面山と火星の人面岩との関係に関する私の現地調査の結果自体が、そのようなとんでもない思い上がりを助長してはばからない程の、約8~9の、いかにも因果関係がありそうな事実の発見があるわけです。

現に、もし、私の「八ケ岳人面山の秘密」の内容が、とんでもない支離滅裂な、そして誇大妄想のようなものであるならば、私が原稿を投稿した、あの韮澤潤一郎氏の「たま出版」が、たとえ共同出版という形態とは言え、自社の名の出る書籍の原稿として採用してもいいという賛同は得られるはずはありません。


 まっ、そんなわけで、いずれにしても、態勢を整えてからということで、とりあえず、神からの霊示として受け止め、HPのトップページからは、「八ケ岳人面山の秘密」に関する2つの画像を消去した次第です。

 今朝、五時頃、何のまえぶれもなく、突然、家の電気が消え、同時に外で雷光が光り、それから、約一秒で雷が家の近くに落ちました。ものすごい衝撃でした。単に、光から一秒以内に落ちたからー と言うのではなく、そもそも、一般的な雷の概念を覆すような、まるで、家の近くに深さ100m位の穴が開いたかと思うような、とんでもない規模の雷でした。北朝鮮からの原爆でも落ちたのかと思うようなすごさでした。母も、「こんな雷は、いままで体験したことがない」と言っていましたし、私も同じです。


 しかも、確かに曇っていて、雨も降ってはいましたが、雷は全く気配さえもない状態で、突然落ちたのです。突然!

その後、2発か3発落ちて、また、全く静かになってしまったのです。なんとも不思議な雷でした。



 今、「超高速絵画技法への試技」という課題に挑戦しているところです。

今後、この課題を模索しながら、その都度、その概念を更新改善しながら模索していきたいと思います。

今、考えている方法は次のようなものです。


 ①心を建設的でありながら、ソフトで穏やかな心に保つ。(建設的で、ソフトで穏やかな心がないと、自分と描画対象との自然の接点が融合・醸成されず、指先の自動書記能力が減衰する)


 ②それによって、自分に描画対象との率直で自然な注意力、あるいは認識能力による自然の指先・ペン先の動きの「自動書記的書き写しの動きを醸成」し


 ③100%自然の、自分のあるがままの内側からの気付きとやる気だけの力を、ちょうど、砂遊びの池に溜めた水を、出来るだけ遠くまで流し引き延ばすが如く続ける。


 ④その自動書記的なペン先の描き写しを、その出来形を、スパンスパン(区画、区画)に区切って、自分で再確認し、完全を求めず不完全が許されるぎりぎりの形状を許容、容認し、そのスパン毎に確定して次のスパンへとデッサンを続ける。

(つまり、私も含めて、自分は一枚の絵を仕上げる集中力と持久力がないと思っていたり、自分は、人に比べて絵が下手だと思っている人は、そのデッサンの書き写しのスパンスパンの出来ばえに、その都度、人並の完全を求めて「絶望しきっている」のではないだろうか? その為に、途中でやめて次に進まず描けなくなっているのではないだろうか? そうではなく、むしろ、許される不完全さのギリギリまで自分を許し、繰り返しますが、スパンスパンに区切ってーたとえば、屋根、次は壁、次は窓というふうにー確定して次に進めば、思いのほか、遠くまで楽しみながら描いていけるのではないか? これは、絵手紙の筆を、一番上をつまむように持って自由に描く画法とも、通じるものがありますが、しかし、私の画法は、それよりも確信的不完全画法です)


以上、この方法で、最も省力的でしかも最速の画法が確立できないか?

今後、この画法の私の絵を、このブログの記事にアップしていくこで、この画法の有効性を証明していきたいと思います。


 ちなみに、私が、心理学的に絵に期待するものは、絵は、人とのコミュニケーション手段として、その作品の効果の再生の場合、描き手の手を離れて、一人立ちし、自立してこの効果を出し続けてくれるという点にあります。

つまり、小説は読まねばならず、音楽は弾くかスイッチを入れなければならず、映画は見なければなりません。しかし、絵は、部屋に飾っておくだけで、そのコミュニケーションの効果を出し続けてくれます。しかし、他人の絵を見て感動する分には良いのですが、自分でそのような癒しの効果のある絵を描くということになると、やはり、大変な労力が必要になるのであり、その意味で、その作業が、最少労力と最速で描くということは、その効果対投資という意味で、非常に重要な意味を持ってくることになります。


そして、この超高速絵画技法は、一般の作業心理学や、あるいは精神的現象の事象の理解に汎用されないだろうか?

たとえば、自閉症などはどうだろうか?

つまり、建設的でソフトで穏やかな精神状態が保たれないがために、まさに「自分と描画対象との自然の接点が融合・醸成されず、指先の自動書記能力が減衰する」のであり、自分と社会・学校との接点が融合・醸成されず、まさに生活の基礎能力の自動作業能力が減衰しているのではないだろうか? そして、そのような環境の中でも、あえて、人並の能力主義の完全性を求めるあまり、生活のスパンスパンで、まさに「絶望しきっている」のであり、その為に、リズミカルに生活が前に進んでいかないという現象ではないでしょうか?